2011/12/31

2011年

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1月1日にこんなことをtweetして,そのとおりの1年になったように思います.

好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。 (坂口安吾 『夜長姫と耳男』)

あるいは,夢十夜の第二夜のような.

サイエンスをやりたいという明確な想いは一貫していて,でも,いかに想いを実現して,さらに将来につなげていくかが具体的でなく,視野の狭さに鬱々としながらも,とにかく組み立てては壊してを繰り返して,やっとここまでたどりついた,という感じ.
そうしなければつぶれてしまいそうに思ったから,わかっていながらも偽物の「強さ」に身をかためて,なんとか自分をドライブしてきたような.
内と外とで違う時間が流れていると感じることが多くなり,3月の地震でも,現実感が圧倒的に希薄だった.

時間はあったけれど,余裕を感じとることができなかった.余裕とは,時間があるということではなくて,余裕を感じる心があるということ.
「咒う」ことで,たしかに力は出るのだけれど,それは人を幸せにしない力.そして,ひとりでできることには限界があって,短期的には無駄に見えても,長期的にはそうしないほうが良い結果が出ることが多いし,なによりそちらのほうが楽しい.これまで何度も思い知ってきたこのことを,あらためて強く感じた.

しかし,全体的に見て,内的にも外的にも,次につなげられる種のようなものをいくつも手にできた1年でもあったように思う.来年は,こんなふうになりそうな気がしている.

孤独な鳥の条件は五つある.第一に孤独な鳥は最も高いところを飛ぶ.第二に孤独な鳥は同伴者にわずらわされず その同類にさえもわずらわされない.第三に孤独な鳥は嘴を空に向ける.第四に孤独な鳥ははっきりした色をもたない.第五に孤独な鳥は非常にやさしくうたう.-サン・ファン・デ・ラ・クルス

やさしくうたうことが,できればいいなあ.

2011/12/23

半年

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最終出社日がちょうど夏至の日で,その反対側の冬至の日が昨日でした.つまり,実質的に,会社を辞めてから半年経ったわけです.

この半年のあいだ,「選ぶ」ということに対する意識が,いつも頭の片隅にありました.
限られた時間を何に使うか.そして何に使わないか.
選ぶとは,何を選ばないかを決めることでもあります.
選ばなかったものには拘泥しないこと.

しかし,「拘泥しないこと」に拘泥してしまった半年でもありました.
まだまだ自分で自分を縛っていて,高く飛ぶことと飛びつづけることの両立が難しいようです.

そして,「慣れ」のおそろしさを幾度も感じました.
慣れに対するおそれにすら慣れてしまう.
「慣れ」には,そういう圧倒的な包容力 (包容力です…!) があります.

写真は,Montpellierで見た青空です.
TGVから街に降り立ったとき,見上げて,「無」ということを感じたときの初夏の空.
…高く,飛びたいものです.

2011/12/19

「権威主義的な」美術鑑賞

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先日 (といっても10日以上前ですが…),三田の家にお邪魔してきました.
古い家を改装してあって,マスターや学生やその他の方がいて,はじめてなのになんだか落ち着ける素敵な空間でした.
参加したのは hiranotomoki さんの美術鑑賞会で,他の人の感じ方も参考にしながら,ひとつの美術作品とじっくり向きあう時間でした.

さて,そこで大いに気になることがふたつあったので,そのうちのひとつについて考えてみます.

おそらく多くの人が,権威主義的な美術鑑賞に敷居を感じているのに,なぜそうしたシステムはなくならないのか?
ということです.

他の方の考えを聞いて,自分の印象と比較して,強く感じたのは以下のことでした.

美術についての知識がないと,美術館に行っても楽しみ尽くせないような,なんだかそういう敷居の高さを感じる.

これを仮に「権威主義的な」美術鑑賞とでも名づけておきます.
どこかの偉い権威たちが,この作品は良い!と言ったら,それはほんとに良い作品であり,構図とか色使いとか歴史的背景とか,彼らの言う良さを知識として理解していないと,美術作品を楽しんだことにはならないよ,という暗黙の圧力でしょうかね.

こんな「権威主義的な」美術鑑賞の仕方が,おそらく多くの人にとって美術館を訪れる敷居を高くしているのに,どうして存続できているのかな,ということについて考えてみます.

さていきなり結論です.
逆説的ですが,美術というシステムを駆動しつづけるのに必要だったからではないか,となりました.

作品を介して資本が動き,芸術家がある程度の対価をもらうシステムを安定的に維持するには,芸術作品の「ランク」のようなわかりやすさと,競争を適度なレベルに保つ参入障壁 (敷居の高さ) が必要だったのかなと.

近所の小学生が描いた絵よりは尾形光琳の屏風のほうが「芸術的」で,美術商や市場がそう言ってるんだから認めなさいという,圧力をもった基準があればこそ,多くの人は安心して美術作品に大金を投じますし,安心して休日をまるまる使って美術館に行くのかな,ということです.
もしそういう基準がなかったら,小学生の絵も尾形光琳の絵も「まったく同じ」美術作品ということになって,市場やシステムを安定的に維持していくために必要な,稀少性とそこから生じる価値が,なくなってしまうわけです.

2011/12/10

「誠実さ」について

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誠実さとは,「反証可能性 ※1」を残しておくこととも言えるのではないかなと,最近考えるようになってきている.

ある人を対象に,当人のいないところでうわさ話をするのは,その人に反証の余地を与えないので,誠実ではない.ネガティブな感情を抱いて,それを表に出すことを選ぶのであれば,その対象に対して,または最低でもその対象がその場に存在するときに,そうすべきだろうと思う.

事実を隠蔽するのは,他者に「再現性」を与えない行為なので,誠実ではない.利害が同一方向に収束するのであれば,事実は利用可能なかたちにしておくか,知られてまずいようなことはするべきではない.

もちろん,すべてがこのルールで語れるわけではないけれど.

「誠実さ」に関して,何度も何度も失敗していて,誠実さとはなんだろうと最近よく考える.ネガティブな感情を,たとえば珍しいカメラに触ってみるように扱うことができたら,良いなと思う.

※1 キャッチーな言葉として使っているだけで,科学哲学の反証可能性とはかなり異なるものです.

2011/12/02

大きなシステムに反対する活動について

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大きなシステムに対して,徒党を組んで反対する活動は,非合理的かもしれないという話.

競争や不平等は,限られた資源を目当てに多くの人間が算入することによっておこる.
そして,競争の結果はたいていロングテールになっていて,少数の非常に富める者と,大多数の比較的貧しい者とが生じる.

就活や社会格差などの大きなシステムの下では,多くの人は望みどおりの結果を得ることができず,システムに不満を抱くことになる.
そこで,不満を抱く多数の者で徒党を組んで,システムに対して反対の声をあげたり行動をおこしたりすることがある.
反対すること自体が目的であれば構わないけれど,もしその先にあるはずの自分自身の幸せが目的であるなら,こうした活動はちょっと非合理かもしれない.

反対する活動というのも一種のシステムだから,徒党を組んで組織的にやるほど,反対しているはずのロングテールの不平等なシステムと同じ構造をもった世界が確立されていく.同志でもあり競争者でもある人間のひしめくそんな世界で,果たして自分は幸せになれるだろうか?
また,システムを崩壊させたところで,代わりの足場となるほかの世界を創りだしていなかった限り,また新たに生じた大きなシステムに組み込まれて,同じような不幸せに巻き込まれることになる.

大きなシステムに反対する活動はリスクも高い.
(もっともあり得そうなシナリオとして) どれほど反対したところで大部分の人がシステムに安住することを選べば,自分は何の利益も得られず,それだけでなく自分という競争者を排除したことによってシステムに属するメンバーに利益を与えることにもなってしまう.

その一方で,システムでなく自己を軸にすえれば,こうした問題はだいたい生じない.
システムはそこにあるものとして認めたうえで,まず自分の優先順位やしたいことを本当に考えて,いろいろ手をつくしてそれを追求してみる.そうすれば,システムの現状がどうあろうが,自分の軸までふりまわされて致命的なダメージを受けることはない.(本当に考えた結果が,システムに反対する,というのももちろんあり得る)


まとめると,システムの下でシステムに反対しても結局は同じになってしまうということ.そうでなくて重要なのは,システムそのものを飛び越えてしまうこと.言いかえると,反対そのものを目的にするのではなく,自分の本当にしたいことを軸にして行動すること.
そうした「自己本位」の過程が,結果としてシステムの不合理性への反対となるんじゃないだろうか.



このエントリは (というよりこのエントリに限らず),誰かを誹謗中傷したりするような意図で書いているわけではないことを付記しておきます.

2011/11/27

想像力より高く飛ぶ

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このBlogのタイトル「想像力より高く飛ぶ」に込めた意味を書いてみます ※1

まず,生きている限り,人は選択を重ねるものだけど,選択それ自体は本質ではない.
選択の本質は,想像するというところにあると思っている.

起こり得る可能性を想像して,それに対する自分の行動 (選択) を想像し,その結果起こり得る可能性を想像して…
ときにはハイな気分や苦しい想いを通り抜けたりして.自身の選択の結果が内的・外的にどのような影響をもたらすことになるか,それを考える想像のループを回す過程が選択の本質であって,選択それ自体は,確かに目立ちはするけれど,やっと最後に表れ出された結果にすぎない.


そして,この想像を含む選択という行為によって,私は私であることができる.
無限の可能性の中から,選び取り,捨てるもの,それらが私を浮き彫りにし,私に私であるという個性を与えつづける.
もし,取るものも捨てるものも,何も選ぶことができなかったら,私が私という存在であることは困難になる.


こうしてみると,想像できないもの,は非常に恐ろしいものに思えてくる.
想像さえできれば,選び取ることも捨てることもできるのだけれど,想像できない限り,それは選択の対象にのぼることすらなく,そこに,私は,決して存在できない


だから,自分の想像できる範囲を何とかして広げることが,決定的に重要だと思った ※2
つまり,自分の想像力よりも高いところから世界を見渡そうとすること.
そんな想いをこめて,「想像力より高く飛ぶ」という名前をつけたのでした ※3



※1 でもやはり,とても抽象的になってしまった…
※2 最近はちょっと考えが変わってきたりしているのですが.
※3 寺山修司の「どんな鳥も想像力より高くは飛べない」という言葉が念頭にあります.

2011/11/19

ルーティンな生活 (あるいは 収束と発散)

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内田樹さんの『最終講義 -生き残るための六講』という本に,以下のような文章がありました.

僕がルーティン大好き人間であるのは,ルーティンそのものが好きだからじゃないんです.そうじゃなくて,ルーティンを守って暮らしていないと,絶対に「アカデミック・ハイ」は訪れてこないということがわかっているからなんです.

これまでなんとなく感じてきたリズムみたいなものが,うまく文章化されているような気がしました.
私自身も,自分の生活をルーティンに保っていないと,うまい具合にパフォーマンスをあげられないことが多いように思います.それは,食べるものであったり,朝起きる時刻であったりします.
お昼においしいものを食べに行ったり,プライベートで人とゆっくり話をしたり,そういう贅沢をすると,なんだか心が落ち着かなくて,ふわふわしているうちに一日が終わってしまう,そんなことがよくあります.また,特に睡眠時間は重要で,明確に緊急な要件でもない限り,睡眠時間が足りなかった日は,ほとんど集中できずに時間が流れていきます.

でも,決して,それらの「非ルーティン」なことが必要ないと言ってるわけではないですし,それらがあったほうが,より一層わくわくどきどきできるようなときもあります.

この違い,どこから来るのかと考えて,自分自身のリズムとの対応が重要なのかなと思いました.
何かの目的を達成しようとしていたとして,最初インプットを重ねているとき,意識が内側に向けて収束しているような感じになります.この段階ではたいてい,生活がルーティンなほうが効率が良い.
しかし,ある程度たまってきたインプットをアウトプットに変換していくときや,いちばん最初にそもそもどういう目的を設定するか考えるようなとき,意識が外に向かって発散していくような感じになります.この段階では,「非ルーティン」によってリズムが撹乱されると,かえって面白い結果を出せるようになることがある.

本には,以下のような文章もありました.

自分の知性が最高の状態にないことに,空腹や眠気や渇きと同じような激しい欠落感を覚える人間だけが,知性を高いレベルに維持できる.

私にとっての「高いレベル」が本当に高いレベルなのかは定かではありませんが,こちらもなんとなくわかるような気がしました.
ごくまれに訪れてくる「アカデミック・ハイ」のわくわくどきどきした状態のためなら,「変化のない生活」も別に苦ではなくて.いや,苦とかそういうものではなくて,プロセスの一部である,とそんなことを思うのでした.

2011/11/01

やるべきことが見えてくる 研究者の仕事術

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やるべきことが見えてくる 研究者の仕事術』 (島岡要, 2009年, 羊土社) を読んでの感想です.
全体の印象については,以下のようなエントリに (私の感想が蛇足にしかならないほど) 非常に的確にまとめられているので,ここでは印象に残った部分の抜き書きを.

プロフェッショナル根性論 - 書評 - 研究者の仕事術 (404 Blog Not Found)
研究者の仕事術 - 「いかに働き、いかに生きるか」 (Leo's Chronicle)
やるべきことが見えてくる研究者の仕事術―プロフェッショナル根性論 (発声練習)

「好き」よりも「得意」にこだわる

專門バカに陥らないようにするために大切なことは,専門領域以外の知識を深めることではなく,自分の専門性を深める過程で普遍性を見失わないことなのです.

時間管理

あなたが成し遂げた10の業績のうち上位2つが,あなたの評価の8割を決める (ブライアン・トレーシー).

たとえ困難でも最も重要な仕事に最初に取りかかるべきです.そうすればたとえ時間切れになっても達成できずに残るものは重要度の低いものであるはずなので,あなたのトータルな評価に対するダメージは,重要度が高い事柄ができなかった時に比べずっと小さいはずです.逆に手がつけ易いという理由で簡単でも重要度の低い案件から始めるというのは,最も重要な案件にかける時間を失ってしまう可能性が大きく,対費用効果の点からはおろかな選択ということになります.

重要であるが緊急でないことをできるか?

成功している企業では時間の65%を領域-Ⅱに充てている
領域Ⅱ: 重要だが緊急でないこと

建設的なフィードバックの与え方

オピニオン (意見/コメント) ではなくアナリシス (査読と評価) を.

創造性とは

創造性とは誰もできないような斬新な考え方をする,他人とは質的に異なる「ユニークな能力」ではなく,必然的に起ころうとしている発見を誰よりも早くつかみ取る「効率のよさ」のこと (ロバート・K. メルトン).

変化に対する苦痛・恐怖

John McCain 勇気とは恐怖を感じないということではない.勇気とは恐怖を目の前にしてなお行動できることだ (Courage is not the absence of fear, but the capacity to act despite fears.)

おすすめのTED



とにかく素晴らしい本です.

2011/10/29

StrengthsFinder (ストレングス・ファインダー)

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1年半くらい前にやったStrengthsFinder (ストレングス・ファインダー)のメモをたまたま見返す機会があったので,ちょっと転載してみます.
ストレングス・ファインダーとは,『さあ、才能(じぶん)に目覚めよう あなたの5つの強みを見出し、活かす』という本にある,自分の強みをみつける分析ツールみたいなものです (専用IDが必要).書名はなんだか胡散臭いですが,内容は悪くなかったと記憶しています.

以下,私の結果です.

1. 着想
あなたは着想に魅力を感じます。では、着想とは何でしょうか? 着想とは、ほとんどの出来事を最もうまく説明できる考え方です。あなたは複雑に見える表面の下に、なぜ物事はそうなっているかを説明する、的確で簡潔な考え方を発見すると嬉しくなります。着想とは結びつきです。

2. 戦略性
戦略性という資質によって、あなたはいろいろなものが乱雑にある中から、最終の目的に合った最善の道筋を発見することができます。
そして、選ばれた道――すなわちあなたの戦略――にたどり着くまで、あなたは選択と切り捨てを繰り返します。そしてこの戦略を武器として先へ進みます。

3. 社交性
そして一度そのような関係ができ上がると、あなたはそこでそれを終わりにしてまた次の人へ進みます。これから出会う人は大勢います。新しい関係を築く新たな機会があります。これから交流を持つ新しい人の群れがいます。あなたにとって友達でない人はいません。ただ、まだ会っていないだけなのです。沢山の友達が。

4. 最上志向
優秀であること、平均ではなく。これがあなたの基準です。平均以下の何かを平均より少し上に引き上げるには大変な努力を要し、あなたはそこに全く意味を見出しません。平均以上の何かを最高のものに高めるのも、同じように多大な努力を必要としますが、はるかに胸躍ります。

5. 親密性
あなたは親密であることに心地よさを感じます。一旦最初の関係ができあがると、あなたは積極的にその関係をさらに深めようとします。あなたは彼らの感情、目標、不安、夢を深く理解したいと思っています。そして、彼らにもあなたを深く理解してもらいたいと願っています。


言われてみれば確かにそうかもしれないと思うところもしばしばでした (バーナム効果かもしれませんが).自分の弱みを自覚している人は少なく,強みを理解している人はもっと少ない,という言葉をどこかで聞いたことがありますが,そういうものなのかもしれませんね.

2011/10/27

『職業としての学問』

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マックス・ウェーバー著『職業としての学問』を読みました.

ポストにつけるかどうかは僥倖である.
学問が価値を示す時代はすでに終わった.
教育者は指導者 (自分の主張を押し付ける) ではない.

など,数十年後に読み返すと,もっと違った見方になるのかもなあ,などと思うようなところがいくつかありました.

いくつか印象に残ったフレーズを抜き書き.

学問に生きるものは,ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ,自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという,おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる.

ある研究の成果が重要であるかどうかは,学問上の手段によっては論証しえないからである.それはただ,人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を拒否するか,あるいは承認するかによって,解釈されうるだけである.

もし悪魔を片づけてやろうと思うならば,こんにち好んでなされるようにこれを避けてばかりいてはいられない,むしろ悪魔の能力と限界を知るために前もってまず悪魔のやり方を底まで見抜いておかなくてはならない.

2011/10/23

トピックから研究課題へ ("The craft of research" 3章)

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"The craft of research." Booth WC, Colomb GG, Williams JM. Univ of Chicago Press. 2008. (3rd ed.) ※1 を読んでのメモです.
今回は,研究課題の立て方について書かれた部分のまとめです.

第3章 研究トピックから研究課題へ

3.2 幅広いトピックをひとつにしぼる

"action" wordsに注意する.これらがないと,トピックは静的なものになり,単なるclaimに終わってしまう.
conflict, description, contribution, developing, …

良い例
The history of commercial aviation

The contribution of the military in developing the DC-3 in the early years of commercial aviation

静的なトピックの例
The history of commercial aviation (topic)

Commercial aviation has a history (claim)

3.3 しぼったトピックから研究課題へ

研究トピックの立て方
  • 歴史について考えてみる
  • より大きな文脈の中でどう位置づけられるか?内部にどのような歴史があったのか?
  • 構造や構成について考えてみる
  • より大きな構造の中でどのようなはたらきをになっているか?システムとしてどのように統合されているか?
  • どうカテゴライズされるか考えてみる
  • 対象はどんなグループに分類できるか?他のものと比較してどうか?
  • 肯定的な問いを否定的なものにしてみる
  • ◯◯は300年間続いた → ◯◯はなぜ300年間しか続かなかったのか?
  • もし を考えてみる
  • もし◯◯が存在していなかったら?
  • 参考文献の示唆している問いについて考えてみる
  • たいてい考察の最後にopen questionが示してある.
  • いくつかの問いを比較してみる
  • いくつかの問いをまとめて,より重要なひとつの問いにしたり.

3.4 研究課題からsignificanceへ

  1. TOPIC: Name your topic.
  2. I am trying to learn about (working on, studying) _____,
    action words を用いて空欄を埋める.
  3. QUESTION: Add an indirect question.
  4. because I want to find out who/what/when/where/whether/why/how _____,
    So what? に答えられるだけのsignificanceをもっていなければならない.
  5. SIGNIFICANCE: Answer So what? by motivating your question.
  6. in order to help my readers understand _____.
    専門とする分野の人にとって重要なissueに触れている必要がある.


脚注

※1 研究者として,テーマをみつけ,結果を出し,参考文献を引用し,論文を書く際の心得やコツを一通りまとめた本です.
ロジカルシンキングやテクニカルライティングなどを扱った書籍はたくさんありますが,研究という営みに特化したものはこれまであまり読んだことがなかったので,非常に参考になりました.あまり見かけない表現などもしばしばありましたが,基本的には読みやすかったです.(ちなみに,本文中には,近々日本語訳も出版されるとの記述がありました)

構成と論拠の修正 ("The craft of research" 14章)

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"The craft of research." Booth WC, Colomb GG, Williams JM. Univ of Chicago Press. 2008. (3rd ed.) ※1 を読んでのメモです.
今回は,原稿の修正について書かれた部分からの抜き書きです.

14章 文章の構成と論拠を修正する

14.2 原稿の枠組みを修正する

読者が,即座に間違いなく,以下の3点を認識できるようにしておかなければならない.
  • イントロダクションの終わるところ
  • 結論のはじまるところ
  • 要点を提示している文章

14.3 論拠を修正する

参考: 論拠の構築

14.3.2 論拠の質を評価してみる

読者があなたの論拠を却下する原因はなんだろうか.
  1. あげられた証拠は十分か,信頼できるか,主張と明確に結びついているか?
    • ノートにとった数字と打ち込んだデータは一致しているか?
    • 引用やデータと主張との結びつきは明確か?
    • 主要な理由と,それを支える証拠のあいだのsubreasonsをすっとばしていないか?
  2. 論拠の妥当性を適切に見積もっているか?
  3. probably, most, often, mayなどの保険をかけておかなくて大丈夫か?
  4. あり得る他の見方や反論についてきちんと認識しているか?
  5. 文章にしていない根拠を,文章にして表現すべきか?

14.4 原稿の構成を修正する

  1. key termsは文章の全体を通して出現してきているか?
    1. イントロと結論にあるkey termを丸で囲ってみる
    2. 本文にある同じtermsも丸で囲む
    3. key termsと関連する語に下線をひく
    4. 大部分のパラグラフに,それらのkey termsがひとつも書かれていなかったら,読者は,あなたの原稿を不明瞭に感じるだろう.
  2. sectionやsub-sectionが始まることを表すシグナルは,明確に示されているか?
  3. 主要なsectionの始まりに,前のsectionとの関係を表すシグナルがあるか?
  4. ひとつひとつのsectionが全体とどう関係しているか明確にわかるか?
  5. それぞれのsectionについて,このsectionはどんな問いに答えているか?と考えてみること.答えられなかったら,その部分の削除を考えても良い.
  6. そのsectionの要点が簡潔に示されているか?
  7. そのsectionを性格づける見出しは個性的か?
  8. 全体を通した性格づけと変わるところがないなら,読者は,新たなアイデアが提示されていないと読むだろう. 他のsectionと同じであったなら,同じことが繰り返されていることになる.


脚注

※1 研究者として,テーマをみつけ,結果を出し,参考文献を引用し,論文を書く際の心得やコツを一通りまとめた本です.
ロジカルシンキングやテクニカルライティングなどを扱った書籍はたくさんありますが,研究という営みに特化したものはこれまであまり読んだことがなかったので,非常に参考になりました.あまり見かけない表現などもしばしばありましたが,基本的には読みやすかったです.(ちなみに,本文中には,近々日本語訳も出版されるとの記述がありました)

2011/10/19

Rの勉強会 Kashiwa.R を開催します

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東京大学柏キャンパスでRの勉強会 Kashiwa.R を開催します.

概要

上級者から初心者まで,Rや統計解析に興味をもった人たちが,お互いの知識を交換しあって勉強できる会にしたいと考えています.発表者も募集してます!

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2011年11月11日 (金)
17:30-19:30
東京大学柏キャンパス 柏図書館 セミナー室2
終了後,食堂または総合研究棟で懇親会
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詳細はKashiwa.RのWikiをご覧ください.


動機

統計解析やRについて,いろいろな知識を吸収して視野を広げたいなと思ったのが,はじめの動機です.

数理統計解析やRには,実にさまざまな手法があり,使い方があります.
そして,ある分野では当たり前のように使われている手法やtipsが,実は他の分野では知られておらず,大きなbreak-throughを生み出す可能性を秘めているようなことは,往々にして起こり得ます.
しかし,それぞれの専門が高度になり細分化した現在,異なる分野の手法を個人ひとりの力で幅広く勉強するのはなかなか大変です.

そこで,誰もが気軽に参加して発表もできる勉強会があったらいいなと思ったわけです.
それぞれの知識や勉強したことをシェアして,研究や仕事でデータを解析する際に役立てられればいいなと考えています.

Rの勉強会としては,Tokyo.RTsukuba.Rなども開催されていますが,開催場所が (柏からだと) やや遠いのが難点です.
Kashiwa.Rとして,柏キャンパスやその周辺で勉強会を開催することで,
  • 近場で気軽に参加できる
  • 発表や意見交換を通じて,内外の学生・研究者の交流にもつながるかも
という利点・効果が期待できます.

というわけで,開催してみることにしました!


いろいろ

発表者・参加者募集中です!
どんなに「つまらない」ことでも結構です (前述のように,他の分野においてはそうではないかもしれませんし).
何かネタのある方は,ぜひ,MLWiki@tsutatsutaまでご連絡ください.
当日飛び入りも歓迎ですが,Wikiに出欠などを書いてくださるとうれしいです.

また,勉強会は,柏キャンパスの学生・研究者の学術交流を目指しているAcafeとの共催です.次回のAcafe開催は未定ですが,興味がありましたら,こちらのほうにもぜひご参加ください!

2011/10/18

Revising Style ("The craft of research" 17章)

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"The craft of research." Booth WC, Colomb GG, Williams JM. Univ of Chicago Press. 2008. (3rd ed.) ※1 を読んでのメモです.

明瞭でわかりやすい英文を書く際に,17章 Revising Style は非常に参考になりそうなので,英文のまま引用します.本文では例があげられ詳しく説明されています.少しでも興味があればぜひ原書をご覧ください.

17.2 THE FIRST TWO PRINCIPLES OF CLEAR WRITING

17.2.1 Distinguishing impressions from Their Causes
For that, you need a way to think about sentences that connects an impression like confusing to what it is in the sentence, on the page that confuses you.

The principles focus on only two parts of a sentence: the first six or seven words and the last four or five. Get those words straight, and the rest of the sentence will (usually) take care of itself.

17.2.2Subjects and Characters
Readers will judge your sentences to be clear and readable to the degree that you make their subjects name the main characters in your story.

17.2.3 Verbs, Nouns, Actions
  • Express crucial actions in verbs.
  • Make your central characters the subjects of those verbs; keep those subjects short, concrete, and specific.

17.2.4 Diagnosis and Revision
To diagnose:
  1. Underline the first six or seven words of every clause, whether main or subordinate.
  2. Perform two tests:
    • Are the underlined subjects concrete characters, not abstractions?
    • Do the underlined verbs name specific actions, not generalness like have, make, do, be, and so on?
  3. If the sentence fails either test, you should probably revise.

To revise:
  1. Find the characters you want to tell a story about. If you can't, invent them.
  2. Find what those characters are doing. If their actions are in nouns, change them into verbs.
  3. Create clauses with your main characters as subjects and their actions as verbs.


17.3 A THIRD PRINCIPLE: OLD BEFORE NEW

Readers follow a story most easily if they can begin each sentence with a character or idea that is familiar to them, either because it was already mentioned or because it comes from the context.

To diagnose:
  1. Underline the first six or seven words of every sentence.
  2. Have you underlined words that your readers will find familiar and easy to understand (usually words used before)?
  3. If not, revise.

To revise:
  1. Make the first six or seven words refer to familiar information, usually something you have mentioned before (typically your main characters).
  2. Put at the ends of sentences information that your readers will find unpredictable or complex and therefore harder to understand.


17.4 CHOOSING BETWEEN ACTIVE AND PASSIVE

Rather than worry about active and passive, ask a simpler question: Do your sentences begin with familiar information, preferably a main character? If you put familiar characters in your subjects, you will use the active and passive properly.


17.5 A FINAL PRINCIPLE: COMPLEXITY LAST

17.5.1 Introducing Technical Terms
When you introduce technical terms new to your readers, construct your sentences so that those terms appear in the last few words.

17.5.2 Introducing Complex Information
Put complex bundles of ideas that require long phrases or clauses at the end of a sentence, never at the beginning.

17.5.3 Introducing What Follows
When you start a paragraph, put at the end of its first or second sentence the key terms that appear in the rest of the paragraph.


脚注

※1 研究者として,テーマをみつけ,結果を出し,参考文献を引用し,論文を書く際の心得やコツを一通りまとめた本です.
ロジカルシンキングやテクニカルライティングなどを扱った書籍はたくさんありますが,研究という営みに特化したものはこれまであまり読んだことがなかったので,非常に参考になりました.あまり見かけない表現などもしばしばありましたが,基本的には読みやすかったです.(ちなみに,本文中には,近々日本語訳も出版されるとの記述がありました)

2011/10/16

イントロと結論 ("The craft of research" 16章)

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"The craft of research." Booth WC, Colomb GG, Williams JM. Univ of Chicago Press. 2008. (3rd ed.) ※1 を読んでのメモです.
今回は,イントロダクションと結論について書かれた部分からの抜き書きです.

16章 IntroductionとConclusion

16.1 Introductionに共通する構造

Context + Problem + Response.

16.2 ステップ1: 共通の土台を確立する

共通の土台にある (すでに知られており明らかに問題がない) 話題からはじめる.そして,問題を提示する.
読者よ,おそらくあなたは◯◯について知っているだろう.しかし,あなたの知識には不足または不完全なところがある…

16.3 ステップ2: 問題を述べる

共通の土台を確立したなら,問題を提示することでそれを乱す.
研究上の問題の提示は以下2つの部分に分けられる.
・知識や理解が不完全であるという状態 (a condition)
・その状態の帰結 (consequences)

誰かが,それでどうなっちゃうの?と聞いてきてくれる場面が想像できるなら,この状態の解決は,十分な研究上の問題になり得る.
次にするのは,その帰結を,直接的なコスト (◯◯が不完全なので,より大きな問題である××が解決できない) または利益に変換したかたち (もし◯◯を明らかにできれば,××を決定できる) で,示すこと.

16.4 ステップ3: 自分のだした答えを述べる

Introductionの最後で,主張のポイントまたは解決策を明確に述べる.
または,ここでは示さないが,Conclusionや本文中で答えを提示すると約束する (point-last paper).しかし後者のスタイルは,読者に本文を読む (余計な) 時間を要求することになるため,推奨されない.

16.6 Conclusionを書く

16.6.1 主張の要点 (Main point) からはじめる

Conclusionのはじめのほうで,要点を述べる.既出であったら,またきちんと繰り返す.

16.6.2 新たな Significance や応用を述べる

要点を述べたら,なぜそれに意味があるのかを示す.

16.6.3 さらなる研究の必要性を示唆する

この研究からは結論がでたが,まださらなる研究が必要である.


脚注

※1 研究者として,テーマをみつけ,結果を出し,参考文献を引用し,論文を書く際の心得やコツを一通りまとめた本です.
ロジカルシンキングやテクニカルライティングなどを扱った書籍はたくさんありますが,研究という営みに特化したものはこれまであまり読んだことがなかったので,非常に参考になりました.あまり見かけない表現などもしばしばありましたが,基本的には読みやすかったです.(ちなみに,本文中には,近々日本語訳も出版されるとの記述がありました)

論拠の構築 ("The craft of research" 7-11章)

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"The craft of research." Booth WC, Colomb GG, Williams JM. Univ of Chicago Press. 2008. (3rd ed.) ※1 を読んでのメモです.
今回は,論拠を構築する,ということについて書かれた部分からの抜き書きです.

7章 良い論拠 (argument) を構築する

7.1 読者との対話としての論拠

p. 109
論拠は以下の5つの問いに答えることによって構築される.
-----
1. 主張 (claim) は何か?
2. その主張を支える理由 (reason) は何か?
3. その理由を支える証拠 (evidence) は何か?
4. 別な可能性 (alternatives) / もっと複雑な証拠 (complications) / 反対意見 (objections) を認識しているか?そしてそれらにどう対応するか?
5. 2の理由から1の主張が導かれるのを妥当 (relevant) にする原理 (principle) は何か? (この原理は根拠 (warrant) と呼ばれる)
-----

7.2 主張を支える

p. 111
・理由は,私たちの精神のはたらきによって思いつかれる.
・証拠は,「その外」の「物質的な」現実世界にあり,誰もがわかるようなかたちにして示さなければならない.

7.3 予期される問いかけや反論を認識し,それらに答える
7.4 理由の妥当性を保証する

p. 116
CLAIM because of RESON based on EVIDENCE...
ACKNOWLEDGEMENT AND RESPONSE I acknowledge these questions, objections, and alternatives, and I respond to them with these arguments…
WARRANT The principle that lets me connect my reason and claim is...


8章 主張を決める

8.2.2 主張を意味あるもの (significant) にする

p.124
もっとも意味のある主張は,研究者のコミュニティがこれまで深く信じてきた考えに変革を迫るものである.
読者は,研究が新たなデータを示しているだけでなく,そのデータを利用して,不可解な,矛盾した,問題になっていたトピックを解決したときに,その研究をより高く評価する.
さらに言うと,読者は,解決済みだと長く考えられていたトピックがひっくり返されたときに,新たな証拠をもっとも高く評価する.


9章 理由と証拠を組み立てる

9.3 証拠それ自体と,証拠を報告することを,きちんと区別しておく

p. 133
研究者は,読者と「証拠それ自体」を共有することはできない.

9.4.1 証拠を正確に報告する
もし自分自身が,その証拠にあやしいところがあることを認識しているなら,信用できないとしてその証拠を却下するのではなく,自分自身が懸念しているということを表すこと.そうすれば,不正直なふるまいとはならない.


10章 認識と対応

p. 139
あなたの論拠に対し読者が問いかける可能性があるのは,以下の2つの点に関してである.
・内部的な健全性 (intrinsic soundness): 主張の明確さ,理由の妥当性,証拠の信用性.
・外部的な健全性 (extrinsic soundness): 問題を別な視点でとらえられる可能性,見過ごされていた証拠,同じトピックに対する他者の議論.

10.1 読者がするように,あなた自身の論拠にケチをつけてみる

自分に間違ってもらいたいと考えている利害関係者のような視点から,自身の論拠を読んでみる.そして,彼らが投げかけると予期されるもっとも厳しい反論について,あらかじめ答えておく.彼らがそれを実際に投げかけてくる前に.

10.3.2 答えられない問いかけを認識しておく

もし,解決したり説明しきったりできない欠点を発見したなら,それを避けるために,問題を再定義したり,論拠を再構築しなければならない.しかしそれが不可能なら,タフな決断が必要とされる.
読者が気づかないことを期待してその欠点を無視することは可能だが,それは不正直である.もしみつかれば,その論拠のみならず,あなた自身の倫理や評判にも疑惑の目が向けられ,致命的なダメージを受けるだろう.
ひとつの方法は,素直だが,実際に効果のあるものだ.欠点をしっかりと認識し,
・その他の議論で欠点が補われている
・欠点は深刻だが,さらなる研究によって解決される
.欠点があるため主張をすべて受け入れてもらうことはできないが,この主張は問題に対して洞察を与え,より良い答えが必要であることを示唆した
ということを示す.

10.5 認識と対応のための語彙

実例がいろいろ.
p. 147
may は一般的な認識の語句である.
p.148
but, however, on the other hand など不賛成のシグナルとともに,反論を開始する.


11章 論拠

11.1 論拠とは,日常的な理由付けである

p. 153
理由付けの背後にあるロジックは以下のとおり.
一般的に言われている論拠が真であるならば,それに関わる何か特定の例もまた真である.

11.5 いつ論拠を言明するか考えてみる

p. 163
・読者が正しいと認めたがらないような主張をするとき.
読者が反抗すると考えられる理由や主張を展開する前に,読者が受け入れると考えられる根拠を示すことからはじめるのが良い.そうすれば,少なくとも,主張が合理的でないと見られてしまうのを防ぐくらいにはなる.


脚注

※1 研究者として,テーマをみつけ,結果を出し,参考文献を引用し,論文を書く際の心得やコツを一通りまとめた本です.
ロジカルシンキングやテクニカルライティングなどを扱った書籍はたくさんありますが,研究という営みに特化したものはこれまであまり読んだことがなかったので,非常に参考になりました.あまり見かけない表現などもしばしばありましたが,基本的には読みやすかったです.(ちなみに,本文中には,近々日本語訳も出版されるとの記述がありました)

2011/10/14

『これから論文を書く若者のために』再読

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酒井聡樹 著『これから論文を書く若者のために 大改訂増補版』 (共立出版, 2006年) を再読して,内容の覚え書き ※1 と感想です.
論文を書こうとする大学院生のバイブルのような本ですので,未読の方はぜひご覧になることをおすすめします.


覚え書き

イントロ

以下の2点を説明する必要がある.

・何をやるのか
・どうしてやるのか

どうしてやるのか はさらに以下のように分解できる.
・どういう問題があるのか
・どうしてその問題に取り組むのか
・その問題の解決のために「何をやるのか」を行なう理由

どこまで説明するか?

その学術雑誌の読者の共通理解のところまでさかのぼって.

イントロ折り紙

3. どうして取り組むのか: どうしてその問題に取り組むのかの説明
2. 何を前にして: どういう問題があるのかの説明
1. 何をやるのか: その論文でやったこと
4. どういう着眼で: その問題の解決のために「何をやるのか」を行なう理由の説明

考察

こういうことを明らかにしたと明確に主張することが考察の章の使命である.
ブレークダウンすると,
・結果の章で提示したデータに基づいて,こういうことを明らかにしたという主張を展開する
・イントロダクションで提起した問題の解決に向けてどう貢献したのかを述べる
・その問題を解決したことでもたらされる,より一般的な学術的意義を述べる
・今後の発展を述べる
・結論を述べる
ということになる.

論文を書くというのは,自分の主張を小さくしていく作業である.


アブストラクト

アブストラクトは,世界に向けて発信する,論文の紹介記事.
具体的には以下に気をつける.
・どうしてやるのかは不要
・結論は明確に
・短い文章で

図表

図にするか表にするか?
あなたが説明しやすい方を選ぶ.

査読と改訂

レフリーのコメントは,英語を習いたての中学生のように読むべきだ.

改訂をするうえでの心構え

・アクセプトが保証されていると思わない
・レフリーというより,担当編集委員を説得することを心がける (編集委員は,リジェクトして論文を減らすのがお仕事)
・労力を惜しまない
・全コメントに対応して改訂した後,改訂稿の全体を読み直し,筋が通っているかどうか確認する
・一日でも早く改訂して返送する

改訂の際に守るべき約束事

・レフリーと担当編集委員の,すべてのコメントに対応する
・直すようにと指摘のあった部分以外は直さない

リジェクトされたら

どこかの大先生に論文を読んでもらったのだと思うこと.

効率のよい執筆作業

論文執筆のみに時間を費やすことを

・時間がもったいない
・新しい研究を進めなくてはと焦りを感じる
・自分は今,研究をしていない
こんな風に思っていないだろうか.
これらはいずれも,とんでもない勘違いだ.論文執筆は研究の重要部分であり,執筆に集中することは,研究完成に向けて時間を有効に使っていることである.

文献

練り上げた構想に従って論文を完成させるために必要な情報を引き出す.
「勉強」のために読むのではない.


感想

学部4年生で卒業研究をはじめた頃にもこの本を読んでいたのですが,修士過程を終え,論文投稿をいくつか経験した今になって読み直すと,あらためて勉強になりました.学部4年生の頃は,研究結果を文章にするということや,査読のプロセスなどについて,ほとんどイメージがわかず,いかにわかりやすい文章を書くかといった部分に注目しがちでした.しかし今,執筆や査読の部分を読んでみると,まったくその通りだとうなずいたり,ああそういうことかと納得するところがしばしばありました.
すでに読まれたことのある方も,もう一度読み返してみると,新たに得るところがあるかもしれません.


脚注

※1 記載内容は本から抜き書いた個人的なメモです (私のオリジナルな表現ではありません).また,本の主張を間違って抜き書いている恐れもあります.十分ご注意ください.

2011/10/08

最古のアシュール石器 (Acheulian)

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1ヶ月ほど前の『Nature』誌に,アシュール石器としては最古となる年代が決定された,という報告 [1] が載りました."Turkana tools"という文句と石器の写真が表紙になっていたので,目にされた方も多いかも.

以下のようなニュースも報道されています.


このエントリでは,この報告の概要と意義について書いてみます ※1

背景 [2]

アシュール石器 ※2とは何か?

人類進化のある段階であらわれた一連の石器群 (石器インダストリ) のひとつです.
石器インダストリは以下の4つに大きく分けられます.
・オルドワン (Oldowan)
・アシューリアン (Acheulian)
・ムステリアン (Mousterian)
・後期旧石器時代以降の「進歩的」な石器群

Australopithecus属からHomo属が進化してきた頃に現れた最初の石器がオルドワンです.260万-160万年前頃まで使われていた石器で,Homo habilis など最初期のHomo属が作成してたと考えられています ※3.「原始的」で,小石をぶつけあわせて鋭い縁をつくりだしたような石器とイメージしていただければ良いかもしれません.

オルドワンの次にあらわれるのがアシューリアンです.もとになる石から手頃な大きさの石を切り出し,その石を丁寧に加工して刃をつけていくことで作られます.アシューリアンになって初めて,こうした二次的な加工や,石器の両面に対する加工が施されるようになります ※4.今回の報告がなされる前までは,アシューリアンは140万-30万年前くらいまで,広義のHomo erectusによってつくられ使われていた,と考えられていました.

ムステリアンは,30万-3万年前くらいまで,Homo neanderthalensis (いわゆる「ネアンデルタール人」) によってつくられ使われていた石器です.亀の甲羅のような特徴的な形の石を生じるルヴァロワ技法 (Levallois technique)によって作られており,石器のほぼ全縁に鋭い刃ができるのが特徴です.

後期旧石器以降の「進歩的」な石器群は,Homo sapiens (私たちヒトのことです) によってつくられ,5万年前以前からみられるようになります.石刃とよばれる規格化された形の破片を切り出し,破片を二次的に加工していくことで実に多様な道具をつくりだします.
それ以前の石器インダストリには,地域や時代によってほとんどバリエーションがなかったのに対し (オルドワンやアシューリアンは100万年近く (!!) 同じような石器がつくられ続けていたのです),このインダストリでは,個別の用途に特殊化したさまざまな石器が各地でつくられるようになります.

人類の進化とアシュール石器

アフリカで進化した初期Homo属は,それまでの人類のうちで初めてアフリカの外に出ていきます (出アフリカ) ※5.この170万-140万年前頃,広義のHomo erectusの出現,アシューリアンの出現,出アフリカ,がほぼ同時期におこっていることから,より「進歩的」なHomo erectusが「進歩的」なアシュール石器を作成し利用して,初めてアフリカ外への拡散を果たしていった,という考えが一昔前まで広く受け入れられていました.

しかし近年,最初期に出アフリカを果たした人類はアシュール石器を持たなかった可能性が高いことが明らかになり [3, 4] ※6 ,上記の考えは再考を迫られていました.
そんななか,今回の研究が発表されました.


今回の報告

アシュール石器の最古の年代が約35万年古くなった

トゥルカナ盆地北西のKokiselei 4遺跡 (ケニア) から発見されたアシュール石器の年代が,約176万年前と推定されました.これまで最古と考えられてきたもの [5] ※7より35万年ほど古い年代です.
年代の決定は,古地磁気測定,層位学,アルゴン年代測定 (先行研究の結果を引用) によって行なわれています※8

オルドワン石器と共存していた

重要なのは,最古のアシュール石器の176万年前という年代が,オルドワン石器の存在していた最新の160万年前という年代とオーバーラップしている点です.この結果は,オルドワン石器からアシュール石器への相互排他的な一直線の発展,という一昔前まで受け入れられていた考えがもっともらしくないことを示唆します.
著者らは,この頃,異なる石器を作成する人類集団が複数同時に存在していた (生物種が異なるのかどうかまでは不明) と結論しています.

さらに,この研究の結果から,当時すでに「進歩的」なアシュール石器が存在していたにも関わらず,それを利用しない人類が最初期に出アフリカを果たした,という意外な実像も見えてきました.アシュール石器の発展により初期人類の出アフリカが初めて可能になった,という従来の仮説は,いよいよもっともらしくないものになってきたわけです.


まとめ

ケニアのトゥルカナ盆地北西の遺跡から発掘されたアシュール石器の年代が176万年前と推定されました.
今回の報告により,アシュール石器とより「原始的」なオルドワン石器の存在時期がオーバーラップしていたことが明らかになりました.
この結果により,オルドワン石器 → アシュール石器という相互排他的な進歩を仮定する考え方と,アシュール石器の発展により初期Homo属の出アフリカが初めて可能になったという仮説は,ますますの再考を迫られることになりそうです.


脚注

※1 論文紹介のゼミで紹介したため,ある程度は読み込みましたが,それでも間違いがあるかもしれません.もしありましたら,ご指摘いただけると幸いです.つくったスライドをそのままアップロードできると良いのですが…

※2 このエントリでは,「アシュール石器」「アシューリアン」「Acheulian」をほぼ同義に使っています.

※3 Homo属だけでなく,Australopithecus garhiなど後のほうのAustralopithecus属も,オルドワンの石器を作成していた,とする説もあるようです.

※4 できあがりの形をあらかじめ頭に描いていなければ,こうした二次加工はできず,したがって,これらの石器の出現は人類の認知能力がここで急激に発達したことを意味している,とする説もあります.

※5 2回目の出アフリカは,約8万-5万年前くらいにHomo sapiensによってなされます.多地域進化説 (1回目に出アフリカした初期人類が世界各地で現生人類に進化した) と,アフリカ単一起源説 (各地の現生人類は2回目に出アフリカしたHomo sapiensの直接の子孫である) のどちらが正しいか,人類学では長年議論がなされてきました.しかし,1990年代はじめ以降の一連の分子系統樹の研究などから,現在ではアフリカ単一起源説が正しいだろうとの見方が一般的になっています.

※6 グルジアのDmanisiで発見された175万年前の初期Homo属は,オルドワンの石器を伴っていました [2].インドネシアのJavaで発見された180万年前と推定された初期Homo属では,共伴する石器がみつかっていません [3].

※7 エチオピアのKonso-Gardula (KGA) 遺跡から発見されたアシュール石器が,アルゴン年代測定と層位学的な研究により,約140万年前のものと推定されています [4].

※8 トゥルカナ盆地のこのあたりには,数百万年間に堆積した地層が隆起して,数10-100m以上の露頭が見えているところがあるようです.石器の年代の決定は,1. 露頭に記録された特徴的なイベント (火山灰や地磁気の逆転など) の年代を決定し,2. 地層の高さとこの年代の関係を数式で表し,3. 石器の発掘された層の高さを数式に代入して年代を算出する,という方法で行なわれました.カバーしている年代は233万-148万年前で,対応する高さは0-247mです.なかなか美しい方法論と結果が出ているように思いましたので,興味のある方はぜひ論文 [1] をご覧になってみてください.


参考文献

[1] Reple CJ et al. 2011. An earlier origin for the Acheulian. Nature 477:82-85.
[2] Klein RG. 2009. The Human Career: Human Biological and Cultural Origins (Third edition). University Of Chicago Press.
[3] Gabunia L et al. 2011. Earliest Pleistocene hominid cranial remains from Dmanisi, Republic of Georgia: Taxonomy, geological setting, and age. Science 288:1019-1025.
[4] Swisher CC et al. 1994. Age of the earliest known hominids in Java, Indonesia. Science 263:1118-1121.
[5] Asfaw B et al. 1992. The earliest Acheulian from Konso-Gardula. Nature 360:732-735.

※ ほかにもありますが,ちょっと絞ってみました.

2011/09/25

熱燗の美味しい飲み方

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このあいだ新潟に行ったときに,日本酒熱燗の美味しい飲み方を教えていただいたので,そのメモ.
熱燗は,むせるようなアルコールの匂いが鼻について,どうも好きになれなかったのですが,この飲み方を教わって,熱燗に対するネガティブな認識が180°転換しました.

結論から書くと,口のすぼまったお猪口を使ってはいけない,すり鉢状に口の広がったお猪口を使うべきである,ということになります.


夜,新潟三越裏の小さな居酒屋に連れて行っていただきました.名前を失念してしまったのですが,新潟のすべての酒蔵の日本酒をはじめ,地ビール,地ワイン,リキュールなども揃えた素敵なお店でした.
そこで教わったのが,前述の飲み方です.

よくみかけるような口のすぼまったお猪口(こんなの)では,飲むときに,蒸発したアルコール臭が濃縮され直接鼻に達し,不快感を感じることになります.

その一方,すり鉢状に広がったお猪口(こんなの)では,口が広がっているため,アルコール臭が拡散し,きつい匂いを感じることなくお酒を飲むことができます.

実際にふたつのお猪口で比べてみると,その差は歴然でした.
店主の方が言うに,熱燗は,ワインのテイスティングのように直接匂いを嗅ぐようなものではなく,飲んだ後に胃のほうからあがってくる香りを楽しむものなのだとか.昔からあったこのような文化を忘れてしまって,熱燗は匂いがきついなどと言っているのはなんとも…と嘆かれておられました.


もともと飲んだお酒が良いものだったのかもしれませんが,機会があればぜひ試してみてはいかがでしょうか.

2011/09/19

「セディバ猿人」は現生人類の祖先か

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一週間ほど前の『Science』誌に,Australopithecus sediba (いわゆる「セディバ猿人」) に関する一連の研究が報告されました.いくつかのニュースサイトでも取り上げられています.

セディバ猿人、現生人類の祖先の可能性 (National Geographic)
南ア発見のセディバ猿人、やはり現代人の祖先? (Yomiuri Online)

本エントリでは,今回の報告の背景と,研究の概略をまとめてみました.ただ,本エントリの内容は,論文そのものというより,『Science』誌および『Nature』誌のNewsやReview記事を参考にしています※1.この点に関してはご承知おいていただけますと幸いです.


背景

Australopithecus属とHomo属 [Gibbons 2011]

Australopithecus属のなかにもいくつか異なる種がいて,そのうちA. aferensisが後のHomo属の祖先ではないかと考えられています.A. aferensisの有名な化石”Lucy”※2は約320万年前ものと推定されています.
その一方,最初期のHomo属としては,Homo habilisの上顎骨が,約230万年前の地層からみつかっています.
このあいだの約100万年間に,どのような移行があった (Australopithecus属からHomo属が進化してきた) のかは,よくわかっていませんでした,


2010年の報告※3

2008年に,Witwatersrand大学 (ヨハネスブルグ) の古人類学者Lee Berger※4らが,南アフリカで人類の化石を発見※5しました.10代前半の男の子と,成人女性の骨※6が発見され,Bergerはそれらを新種とし,Australopithecus sedibaと命名しました.

ウラン-鉛年代測定や古地磁気を利用した年代測定法から,これらの化石の発見された地層は202.6±2.1万年前以降や195-178万年前以降のものだと報告されました [Dirks et al. 2010].

A. sedibaの特徴は,Australopithecus属的な形質とHomo属的な形質がモザイク状に表れていることでした.報告されていた形質のうち代表的なものを以下に示します [Balter 2010].
Australopithecus属的な特徴: 比較的小さい脳サイズ,小さめの体サイズ,長めの上腕
Homo属的な特徴: 小さめの歯,それほど出っ張っていない頬骨,長めの下肢,骨盤の形態

これらのHomo属的な特徴の多さをもって,Bergerらは,A. sedibaAustralopithecus属とHomo属の移行期にあった種 (つまりHomo属の祖先) であると推測し,A. africanusの子孫ではないかと考えました [Berger et al. 2010].


2010年の報告への反論

以下に示すように,いくつか問題がありました [Cherry 2010].

まず,すでに230万年前の地層からHomo habilisの上顎骨が発見されていることを考えると,200万年前の地層から発見されたA. sedibaは,Homo属の祖先と言うには,年代が少々後ろにすぎます.

次に,Bergerらの議論の多くが,子どもの骨を中心になされていることでした.子どもが成長すれば骨格の形も変わります.成長段階にあるため,通常大人ではみられないヒト的な特徴が観察された,という可能性があります.

そして,(これは古人骨研究ではほぼ避けられない問題ではありますが…) ばらつきのある集団のうちのたった数個体のみをもとにした議論には限界もある,という点です.

A. sedibaHomo属の祖先とする説に賛同する研究者もいましたが,多くの研究者は比較的懐疑的で,もっと証拠が必要だと考えていました [Cherry 2010; Balter 2010].


今回の報告と反応

今回の2011年の報告※7

新たに発見された骨を加え,最低5個体,220以上の骨がすでにみつかりました.今回の報告は以下のようなものです [Gibbons 2011].

脳: 全体のサイズは小さいが,前頭葉の一部の復元された形態はヒト的である.この結果は,Australopithecus属からHomo属への移行以前から大脳化がはじまっていったとする説と,矛盾しない [Carlsen et al. 2011].

手: Australopithecus属的な特徴 (強く柔軟な指: 木登りを示唆) と,Homo属的な特徴 (全体的に短い指と比較的長い親指: 精密な把握を示唆) が混在している.特に後者は,石器制作に関連すると考えられ,重要である [Kivill et al. 2011].

骨盤: Australopithecus属的な特徴 (寛骨臼の大きめの径,狭い産道など) と,Homo属的な特徴 (それほどせり出していない骨盤,全体的に垂直方向に長い形など) が混在している.これらの特徴は,頭の大きな赤ちゃんの出産より,二足歩行に対して,より適応していたことを示している [Kibii et al. 2011].

下肢: Australopithecus属的な特徴 (小さめのかかとの骨,頑丈な内くるぶしの骨など) と,Homo属的な特徴 (足首の関節の可動性,「土踏まず」が存在した可能性など) が混在している.この特徴は独特のフォームの二足歩行と,ある程度の木登りを示唆する [Zipfel et al. 2011].

年代: ウラン-鉛年代測定,古地磁気と層位学的な年代決定を用いて,Australopithecus sedibaの出土した地層の年代を197.7±0.2万年前と推定した [Pickering et al. 2011].


報告に対する反応

多くの研究者は,それでもA. sedibaHomo属の祖先とするには証拠不十分であり,後々まで生き残ったA. africanusに他ならないか,A. africanusの子孫ではないかと考えているようです [Gibbons 2011; Callaway 2011]

脳: 脳の形がよりヒト的であるとする説を受け入れるには,他のたくさんのAustralopithecus属個体の脳の形態と比較をする必要があるのではないだろうか [Callaway 2011].

上肢: 長い親指が必ずしも正確な把握と結びつくわけではない [Gibbons 2011].

骨盤・下肢: A. sedibaが他のAustralopithecus属よりひときわ二足歩行に適応していたとしても,Australopithecus属とHomo属の移行期には,それぞれの適応を遂げたさまざまな二足歩行が存在していた可能性が高い [Callaway 2011].


結論というか印象というか

『Science』誌や『Nature』誌の論調を見る限り,可能性はゼロではないだろうけれど,Homo属の祖先と言うにはもっと証拠が必要で,現状では,初期Homo属と同時期に存在したAustralopithecus属の一種と考えるのが妥当ではないだろうかという印象です.論文をきちんと読んでいないため,私個人としては確かなことは言えないのですが…


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参考文献

Balter M. 2010. Candidate Human Ancestor From South Africa Sparks Praise and Debate. Science 328: 154-155.
Balter M. 2011. Paleoanthropologist Now Rides High on a New Fossil Tide. Science 333: 1373-1375.
Berger LR, et al. 2010. Australopithecus sediba: A New Species of Homo-Like Australopith from South Africa. Science 328: 195-204.
Callaway E. 2011. Fossils raise questions about human ancestry. Nature doi:10.1038/news.2011.527.
Carlsen KJ, et al. 2011. The Endocast of MH1, Australopithecus sediba. Science 333: 1402-1407.
Cherry M. 2010. Claim over 'human ancestor' sparks furore. Nature doi:10.1038/news.2010.171.
Dirks PHGM, et al. 2010. Geological Setting and Age of Australopithecus sediba from Southern Africa. Science 328: 205-208.
Gibbons A. 2011. Skeletons Present an Exquisite Paleo-Puzzle. Science 333: 1370-1372
Kibii JM, et al. 2011. A Partial Pelvis of Australopithecus sediba. Science 333: 1407-1411.
Kivell TL, et al. 2011. Australopithecus sediba Hand Demonstrates Mosaic Evolution of Locomotor and Manipulative Abilities. Science 333: 1411-1417.
Pickering R, et al. 2011. Australopithecus sediba at 1.977 Ma and Implications for the Origins of the Genus Homo. Science 333: 1421-1423.
Zipfel B, et al. 2011. The Foot and Ankle of Australopithecus sediba. Science 333: 1417-1420.


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脚注

※1 論文にはひととおり目を通しましたが,私自身は形態や古人類の専門家でなく,非常にたくさん挙げられている形質のうち特にどれが重要なのか,勉強不足のため即座に判定できません.ですので,簡潔にまとまったNewsやReview記事と論文のAbstructを参考にし,重要な部分は論文の本文を詳しく読んで裏をとる,という形式で文章を書きました.間違いなどありましたら,ご指摘いただけると幸いです.時間があれば,本文をもっときちんと読んでアップデートできればと思います.

※2 上野の国立科学博物館に復元模型が展示してあります.

※3 このあたりの記事のまとめがわかりやすいです.ホモ属の特徴をもつアウストラロピテクス属の化石 (雑記帳)

※4 最初に発見したのは当時9歳だったBergerの息子Matthewだそうです.当初は論文の共著者にも含まれていたが,査読者から拒否されたとか [Balter 2010].

※5 古人類学にかける情熱は人一倍だが,スタンドプレーを好む研究者でもあり,また,彼がAustralopithecus africanusやHomo floresiensisについて提唱した学説は,多くの研究者からは支持されていない,という現状もあるようです [Balter 2010].

※6 古人骨の年齢や性別推定についてはこちらがわかりやすいかもしれません.骨から情報を読み解く (Togetter)

※7 このあたりの記事のまとめがわかりやすいです.アウストラロピテクス=セディバの特集 (雑記帳)

2011/08/21

賞状授与における適切な距離の取り方について

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先日,たまたま,賞状授与を間近で観察する機会に恵まれました.
(どんな機会だよ というツッコミはさておき)
50ほどの賞状の受け渡しを観察した結果,授与する人と表彰される人のあいだの距離の取り方に,どうやら3つのパターンがあるように見受けられました.

それはこんな感じです.

まず,表彰される人が前に出てきて立ち止まり,その後で,
------
a. その位置で,両者がそのまま足を動かさずに授与 (その場型)
b. 立ち止まった位置から,表彰される人が授与する人に "2歩" 近づいて授与 (歩み寄り型)
c. 授与する人がすこし後ずさったあとで授与 (後ずさり型)
------
ちなみに,授与のときには,それぞれが上体を曲げて受け渡しをします.

例数をかぞえておかなかったため,あくまで印象ですが,
------
a. その場型: 40%
b. 歩み寄り型: 55%
c. 後ずさり型: 5%
------
というくらいの存在比です.

以下で,この現象について考察してみましょう.

まず,人は,自分と相手のリーチを暗黙のうちに計算して,空間のなかで物理的な位置取りを決めています.
そして,賞状授与では,通常の行動に比べて,
・それぞれの立ち位置からそれぞれが上体を曲げて受け渡しを行なう
・賞状の長さを加味する必要がある
などの不確定要素が多いため,この位置取りの計算が困難になるものと思われます.

主に位置取りをするのは表彰される人のほうです.表彰される人は,すでに前に立っている授与者を遠くから観察し,リーチや賞状の長さを見積もり,自分の番が来たとき前に出て,ある程度の見当をつけて立ち止まります.
そしてこの後に,どの型が出現するかが決定します.

a. その場型
実際に立ち止まってみて,授与する人のリーチを間近でより詳しく推定し,遠くから立てた見当が間違いなければ,両者はその場で立ち止まったまま受け渡しができます.このとき,「その場型」が出現します.
多少の誤差は,上体を曲げる角度を調整することで吸収できます.また,賞状授与という厳粛な場でちょこまか動くのはみっともない,という気持ちもはたらいているかもしれません.それで,この型は40%くらいの頻度で出現します.


b. 歩み寄り型
一方,実際に立ち止まってみて,想定していたより授与者が遠かった場合,「歩み寄り型」が出現します.
すべてのケースで,歩み寄っていたのは,表彰される人のほうでした.賞状をくださる,という状況が暗黙の力関係を規定し,授与する人 (= 権威者) を動かすのは失礼である,という意識がはたらくのかもしれません.
また,歩み寄りは,必ず "2歩" からなっており,1歩だけや4歩の歩み寄りは観察されませんでした.賞状授与という厳粛な場では,過剰な動きを抑えつつ,それでも足を揃えたほうが良いという意識がはたらいているのだとしたら,もっとも少ない奇数歩,つまり2歩が最適な歩み寄り歩数となります.無意識のうちにここまで計算されているのだとしたら,スゴイものですね.


c. 後ずさり型
表彰される人が想定していたより近くに立ち止まってしまった場合,授与する人がすこし後ずさります.これが「後ずさり型」です.
授与する人 (= 権威者) を動かす,パーソナルスペースを侵犯する,という点で,この型はかなりのレアケースです.もしなにかの賞状授与の際にこの型を見ることができたら,心の中で静かに喜んでも良いと思われます.

--
今回のケースでは,"表彰される側" については50ほどのサンプルが得られましたが,賞状授与の性質上,"授与する側" のサンプル数はひとつのみでした.今後は,授与者のサンプル数を拡大した際にも,同様の現象が観察されるか検討する必要があるでしょう.
今回は,不幸にして,上述の3つの型の出現頻度を正確に観察していなかったため,定量的な分析ができませんでした.今後,サンプル数の拡大とあわせて,定量的な観察も行なっていくようにしましょう.
また,今後の重要なテーマとして,時間経過 (授与者の疲労) や式典のカタさの度合いによる型の出現頻度の違い,例外型の検出などがあげられるでしょう.

さらなる研究が望まれます.

2011/08/12

"成功した大学院生になる"

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進化生態学の研究者であるJohn N. Thompsonさんの書かれている ”ON BEING A SUCCESSFUL GRADUATE STUDENT IN THE SCIENCES (Version 8.1)" という文章*1 *2 を読んで,なかなか有益な部分もあるなと思ったので,自分のために和訳してみました.
あくまで自分のためなので,逐語訳ではなくほとんどが意訳ですし,省略した部分もかなり多くあります.

この訳文からの引用などはあまりおすすめしません.必ず原文をご覧ください.

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Thompsonさん本人の許可を取っていませんでしたので,該当部分は削除いたしました.ですが,すばらしい文章ですので,興味のある方はぜひ原文をご覧ください.
(2015年2月2日)

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*1 もともとは @thinkeroid さんのtweetにあったリンクを拝見して,この文書の存在を知りました.ありがとうございます.
*2 「成功」の定義は人によってさまざまでしょうし,私自身「成功」という言葉を使いたくありませんでしたが,原文にならい,アカデミアのjob marketで職を得る ということを「成功」と定義し,便宜的に使用しています.
*3 項目には便宜的に番号をふっていますが,原文にはついていません.

2011/08/05

他者を変えるか自分を変えるか

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他者を変えるのはほんとうに困難だけど,自分を変えるのはそれよりは簡単で,効果と労力のトレードオフを考えてどちらかを選ぶといいのかもね,という話.

システムや組織の現状について,納得のいかない感情を抱いていて,とにかく何とかしたいと思っていたとする.そのときに出てくる選択肢は,
・システムや組織(つまり他者)を変える
・感じ方や置かれている環境(つまり自分)を変える
という2通りがあると思う.(なにもしない,という選択肢はひとまず除外.)

効果が大きいのはもちろん前者で,もし自分が「まともな」感覚の持ち主であれば,改革の成果は,きっと多くの人に喜ばれる.その反面,自分と同様,さまざまな他者もそれぞれに固有の意見や感情をいだいており,外からはたらきかけてそれらを変え,統一していくには大きな労力が必要になる.

一方,後者は,自分自身の思い込みや強情を克服することさえできれば,比較的容易に達成できる.場合によっては,「逃げた」と他者から蔑まれ後ろ指をさされる可能性もあるけれど,少なくとも自分自身はある程度の満足を得ることができる.

それで最近思うのが,前者は,感情の収束する先が自分の内にないんだなということ.他者を変えようとする過程で学ぶことは大いにあるだろうし,達成できればそれはそれですごいことなのだけれど,他者の行動や思考に,自分自身の満足や価値基準が大いに依存することになってしまう.一方の後者では,他者の思惑に関係なく,自分が本当にしたいことを熟考し実現することが重要になってくる.

もちろん,他者からどう評価されるかということも,自分自身のモチベーションを構成する大きな要素ではある.しかし,前者をしようとする際には,それほどの労力を他者のためにつぎ込む覚悟があるか?とあらためて自問してみる必要があるのかもしれない.

2011/07/31

HBES2011

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ちょっと時間があいてしまったけど,国際学会 (HBES2011) に出て感じたことをまとめてみる.内容自体については別のメモがあるので,ここではあくまで感じたことを.

1. 英語
2. 専門をもつ
3. 自分で創りあげる必要性

1. 英語
話すのも聞くのも,力がまだ全然足りていない.
議論という普通のコミュニケーションの時点で,自分は言葉につまることがたまに.
また,講演を聞くときも,意味を理解できないことが何度かあった.
(専門とけっこう離れた分野が多かったというのもあるかもしれないけれど)

2. 専門をもつ
専門をもつとは,自分の立ち位置,モノの見方を決めることでもある.
また,論文が出ているのとそうでないのとでは大違い.研究者の名刺は論文であるというのは本当にその通り.
まだ論文をpublishさせていないのであれば,研究者としてまだこの世に存在していないに等しい…苦笑.

3. 自分で創りあげる必要性
もし先生がテーマを与えてくれたとして,しかしそれで一生やっていけるわけではないのだから,自分自身が勉強して,問いを立てて,解を与える力を身につける必要がある.
もちろん,指導教員が必要ないと言っているわけではない.suggestionなどはありがたく受け取りつつ,それでも自分の研究は自分で創りあげていかないといけない,ということ.ストーリーのつくりかた,研究というプロジェクトの進め方,研究者としての生き方,いろいろ参考にしつつも,指導教員だって間違うことはあるし,彼らの下を離れたときのことまで考えて,学ぶ必要がある
(逆に言えば,自分の研究は自分で創りあげていくことができる,ということでもある.)

2011/07/30

0to1による論文がJJSCに掲載されました

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私が所属している0to1による論文が『科学技術コミュニケーション (JJSC)』第9号に掲載されました.詳細は以下をご参照ください.

JJSCに0to1による論文が掲載されました (0to1 Blog)

この調査と論文執筆を通して感じたことを書いてみます.

1. 異なる視点を持ち寄って議論することは非常に重要
2. 私は「まとめる」のが得意なのかもしれない

1. 異なる視点を持ち寄って議論することは非常に重要
論文を主に執筆したのは,理学系の特に生物学を専攻する大学院生でした.
どのデータをもとに,何をどこまで主張するか,それぞれの視点から活発な議論を行ない,とても楽しく調査研究執筆ができました.自分ひとりでは思いつかなかったようなアイデアが他のメンバーから出され,見込みのありそうなものに関してはさらに検討を重ねていくことで,論文の考察などは特に議論を深めることができたように思います.

その一方で,SVや査読者は科学技術コミュニケーションの分野に精通された先生方でした.
教えていただいた先行研究や方法論を参考にすることで,研究を効率的に進めることができました.同時に,異なる分野の主要な研究テーマや議論の進め方を知ることができ,自身の専門分野をあらためて見つめなおす良い機会になりました.また,理学系の「文化」のもとで学んできた私たちが当たり前と考えていた点についての指摘など,ときにはっとさせられることもありました.

研究内容の議論から論文執筆の作法まで,異なる視点から多くのことを学んだように思います.


2. 私は「まとめる」のが得意なのかもしれない
1の話とも関係してきますが,共著者や査読者のさまざまな意見を総合し,結局何を主張するかを浮き彫りにして,それをデータと論理でサポートしていくのが,私の得意なことなのかもしれないと感じました.

これを逆に言うと,ひらめきやアイデアの種をだす部分は他者に依存している,ということになるかもしれません.たしかに,共著者からのアイデアと議論がなく私ひとりだったら,論旨を構築することはできなかっただろうと思います.

メンバーの志向と特徴がうまく組み合わされば,とても楽しい仕事ができる気がします.


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そして最後に,ご協力くださいましたみなさまに心より感謝申し上げます.
引き続き,どうぞよろしくお願いいたします.

2011/07/27

消えゆく学会

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7月23日に開催された 消えゆく学会 の個人的なメモ書きです.
講演内容とニュアンスや内容が異なる恐れがあります.参照される場合は以下のような他の情報源もかならずご確認ください.

Togetter - 「消えゆく学会 〜問い直される学会の役割と社会との関係性〜」

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武田英明さん(国立情報研)
■「所属学会」が自己紹介になる.(専門性の表現,アイデンティティ)
■学会の歴史としては,科学者のコミュニティと技術者の寄り合いがある.
■科学者の社会貢献の二面性
・科学者としての中立的な助言
・学会(社会に対する科学の代弁者)構成員としての合意した科学者の声
■世界の動向
・ジャーナル:ブランド化(寡占化),オープンアクセス(情報はフリーに).
・カンファレンス:増える傾向,囲い込みもおこる.
■役割の分化
・社会的責任を果たす学会.
・同好会学会.

コメント
■学会への企業の参加が少なくなっている = リターンが少なくなっている,ということではないか.


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神嶌敏弘さん(産総研)
■Web上の学術情報
・ACM Digital Library
・Project Euclid
・寡占化のメジャープレーヤー:Springer,Elsevier,
・プレプリントサーバ
・書誌情報DB(Google Scholarなど)
・会議のIFを計算するMicrosoft Academic Search
・会議の発表をストリーミング(videolectures.net)
・会議案内を掲載するWikiCFP
・Scholarpedia:招待された専門家が記名で編集するWiki辞書
・国際会議の運営を簡単にしたシステム(Easy Chairなど)
・Tewitterはまだ発展途上(アナウンス程度,ビッグネームはやってない,議論してるのとか見たことない).
・Blogは熱心にやられてたりする.
・機会学習の分野では,MLJのEditorial Boardから有力研究者が大量辞職(読むのが有料,掲載まで遅い,など文句があったため).かわりに無料オンライン誌JMLRの創刊.
・Peer Review の公平性,負担軽減
・Webが発展しても,概念としては固まっているが言葉としてあらわせないようなものは検索できない.そうした情報を得るのは,学会や論文が最適なのではないか.


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木村忠正さん(東京大学)
■disciplineとassociationからとらえる
・disciplin:探求の過程.
・association:人々を横につないで補完する場・機会.
■日本社会情報学会はふたつある(しかも登録日が同じ)
■制度科学:"まさに「科」にわかれた「学」"
■現状の問題:Multiversity
■生産するときは組織が活発,交換するときは市場が活発.
■disciplineが何かはdisciplineが再帰的に定義していく.
■組織というローカルが意味をもっていた社会が変化してきた.

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植田憲一さん(電通大)
■アメリカの学会は,いかに世界制覇していくかを考えている.
■「公益」の考え方が米国と日本でだいぶ違う.あちらでは,学会が利益を出すのは当然.こちらでは,儲けてはいけません.学問をやっているということ自体で社会に貢献するべき.それ以外はプラスアルファ.
■学会で「これは言えません」は良いのか?
■日本の学会は世界でもっとも組織され,社会に開かれた存在として社会に貢献してきた(博士号をもたない学生が発表をするのは日本くらい).
■一般社会は,悪貨が良貨を駆逐する.しかしピアレビューは.良貨が悪貨を駆逐する.
■これがテーマだ,と選択した時点で研究の価値が決まる.あとは結果を伝えるだけ.


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山川宏さん(富士通)
■研究環境の変化:Gibbonsのモード論,ZinmanのCudosからPlaceへ,ポストアカデミック科学.


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パネルディスカッション
■学会の生産物のうち最も価値のあるものは人材.そしてそれはなくなって初めて理解される.
■Journalの価値は評価すること.評価したものを回すのは別な部分に任すのが良いのでは?
■自分は人類の知を代表している.レフェリーが認めないなら,それは人類の知に反しているとして戦わないといけない.
■研究者の価値をきちんと測れる仕組みはウワサ.しかし日本の問題は,論文発表数などの定量性をひっくり返せないこと.
■結局,研究者が何を選び取りたいのかが重要ではないか.

2011/07/20

「好きでやっている」ことと「報われる」こと

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「好きでやっている」が,マイナーであり簡単ではないことに従事している人たちは「報われない」,という事象に対して,「報われる」ようになったら,その人たちはその好きでやっていることを続けられなかったかもしれない,というちょっと逆説的な推論.


1. 背景
以下のまとめを読んで,たしかに,結果だけでなく過程にもきちんとスポットライトが当たり,ひたむきに生きている人が報われるようになれば本当に良いなあと思いました.

なでしこ優勝の裏側で…

特に重要なのは,この事例は,他のマイナースポーツ,芸術,研究とかにも通じることでしょうか.これらに従事する人たちは,地道に挑戦を続けていても,「報われる」わけではなく,社会の中では「つらい」思いをすることになってしまう.もしうまくいって注目されても,その注目はあっという間に消費されて,あとは以前と同じに戻ってしまう.

では,もっと間口を広げて,支援を厚くして,挑戦をつづける人や地道にやっている人が「報われる」仕組みをつくればいいのか?と考えたところが,このエントリの出発点です.結論から言うと,この仕組みが本来の目的の達成しつづければいいけれど,私は,それは困難じゃないかなと思いました.


2. パイが大きくなるほど競争は無慈悲になっていく
なぜ困難だと思うのか?
…それは,間口を広げて普及させたあとにはコモディティ化が待っていると思うからです.つまり,「簡単ではないこと」であり,ベネフィットの絶対値が小さいからこそ,参入者が少ないため無慈悲な競争がおこらず,好きなことしたいことができている側面もあるかもしれない,ということです.ニッチな対象を攻めることは,それ単独で立派な優位性となります.

しかし,もし対象が「簡単なこと」になり,得られるベネフィットの絶対値も大きくなったらどうなるか?おそらく参入者が増加して熾烈な競争が生じるのではないでしょうか.その分野に従事しているのが世界にひとりだけなら,自分は間違いなく1番になれます.でも,それが100人だったら?10000人になったら?…パイ自体の大きさも増加するかもしれないけれど,その分野がメジャーになるほど,したいことに挑戦する者ではなく,したいかしたくないかに関わらずそれができる者,に優位性が移っていく.つまり,卓越した熱意ではなく,卓越した能力に,基準が移っていくように思います.(一般に,熱意と能力のあいだには正のフィードバックがはたらくようにも思いますが.)

そして,もっとパイが大きくなって,もっと参入者が増加すると,ある分野では,熱意・能力だけではどうしようもない側面が強調されていくことすらあるようにも思います.戦略的かつ徹底的に大規模な財力や専門性を投下できる者がパイをさらっていくようになってしまうわけです.こうなってしまうと,もはや熱意や能力があるかはほとんど関係なく,「報われてきた者」がさらに報われるという,まったくもって無慈悲な競争になってしまいます.(目的が,それをやることから,「報われること」に移っていくのかなと.)


3. だからといって支援が必要ないわけではない
もちろん,2の推論は,だったら地道にやっている人たちへの支援は必要ないとか,現在ニッチな分野で成果をあげている人たちは実は大したことないとか,そういう結論へ短絡的に結びつくわけではありません.選択および支援における自由と多様性をどれだけ担保できるかが,社会の福利の度合いをはかるひとつの目安になるのかなと個人的には思っています.また,ニッチな分野で挑戦を続けつづけるのは,誰にでも簡単にできることではないでしょう.


4. 結論
もし2の推論が真ならば,マイナーであり簡単ではないがやりたいことは,だからこそやってみる価値もあるのではないかということになります.現状の社会では,いろいろな「好きでやっていること」は十分に「報われていない」状況です.しかし,みんながやらないから間口も狭く,ベネフィットの絶対値も大きくはないけれど,だからこそ「好きでやっている」状態をつづけられる可能性も高いかもしれない.そんな風にも言えるかもしれません.


0. 注意
このエントリは,決して,誰かを誹謗中傷するために書いたものではありません.
また,「報われる」という言葉をどう定義するかによっても,話は大きく変わってくると思います.ここでは,社会的金銭的に評価されるという意味あいで「報われる」という言葉を使っています.(私は,それだけが報われるということではないと思っていますが,あくまで便宜的に.)
それと,福利厚生のような,結果が積極的に「報われる」ことには結びつかないものに関しては,上記の推論をそのままあてはめることはできないようにも思います.

2011/07/17

TOEFLiBTスキルアップセミナー

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先日参加してきた TOEFLiBTスキルアップセミナー のメモ書きまとめ.

■全体的に
・メモは,とってもとらなくても,全体的に見ると結果は同じ(たしかに,自分の受験時にもそれほどは役立たなかった).
・speaking に苦手意識があったけど,なんとかなりそうな気がしてきた.

■Reading
・語彙力があれば単語問題はできる.単語力はないよりあったほうが断然良い.
・最初に全文読むと時間がなくなることが多い."読む"というより"問題を解く"感じ.
・毎日すこしずつでも続けていれば,感覚が身についてくる.analyzeしなくてもわかるようになる.
・読んだ内容のsummaryをつくると良い.その際,同じ文章を繰り返すのではなく,paraphraseする.
・文章の構造を意識しながら読むと良い.説明文(main + support),因果関係(a → b → c),比較(a-1, a-2, b-1, b-2),問題解決(problem → solution 1, 2, …),ナレーション(chronological order).

■Listening
・次に何を言おうとするか予想する練習をする.
・answer to the point 形式になっているので,まずsummaryを聞いて,次にどんなdetailが来るか予測する.
・文化的背景の違いにも注意.

■Speaking
・2つのうちからどちらかを選ぶ問題は,どれもdepend on the situationなんだけど,それでも言い切ってしまったほうが答えやすい.
・評価軸は,カタチができているか,スラスラ言えてるか.内容の稚拙さは関係ない.
・沈黙は減点対象になるので,何も言わない時間をつくるよりは,エーやらアーやら言ったほうがいい.
・評価する人もわかるユニバーサルな対象について述べる.
・自分の選択肢の反対について,なぜそれが良くないのかも述べると信憑性が増して良い.
・カタチをつくるためにはつなぎ言葉が重要になってくる.
・時間があまったら,最後に自分のhopeやsuggestionを入れる.

■Writing
・トピックセンテンスは短く.言いたいことに関する単語が入っていればそれでよし.First, it is tuition. とかそのくらい.
・構造は,introduction(hock 一般論, つなぎ,主張のまとめ),body(topic, supporting)× いくつか,conclusion(◯◯の理由より主張, general statement オチや自分の考え).
・機械的な反復は,剽窃行為につながるものとみなされ,むしろ減点対象になる.

2011/07/04

仕事とつながり

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なんともう,最終出社日が先々週になってしまいました.
時が経つのは本当に早いもので,6月は,時間が過ぎるのがどんどん加速していったような1ヶ月間でした.
(ありきたりな表現ですが,本当にそうだったのです…!)
最終出社日の後も,論文の直しや学会発表の準備があって,ここにきて,ひとまずやっと落ち着いた時間がとれた感じです.

さてそれで,退社の周辺でちょっと感じたことを書いてみようかと思います.
1. なににしても,自分に何ができるかが重要
2. 別離のさみしさとソーシャルメディアについて

1. なににしても,自分に何ができるかが重要
今回,一緒にお仕事をしたことのある部長さんも同時期に退職されることになり,メッセンジャー上などでちょっと話をした.この仕事は,普段の業務とはほとんど関係なく,たまたま自分が取り組めることになった(しかしかなり楽しい)ものだった.

その話をしたときに感じたのが,会社という枠の内だけでも,それを超えるにしても,自分に何ができるかが重要だということ.
ほとんどすべての仕事はチームでするもので,最高におもしろい目的を,仲間と実現しようとするなら,それぞれが多様な能力を持ちよって,結果を創り上げていく必要がある.能力がうまく相補しあって,チームのパフォーマンスが足し算でなく掛け算のようなかたちで現れるなら,それはとても楽しい仕事になる.もし,会社や肩書きという枠に頼っているだけで,個性とか能力とか志向とか,個人としての資質において自分には何もできないのであれば,それは結局「与えられた仕事」をこなしているに過ぎない.

それで,あらためて自分のことを眺めてみると,現状ではまだまだいろいろな枠に頼っていて,もっと突き抜けることができてもおもしろいのかなと感じている.もちろん,枠をうまく利用するというのも,ひとつの能力ではあるのだけれど.


2. 別離のさみしさとソーシャルメディアについて
別離のさみしさは,人と疎遠になることから生じる.これまでの人生では,たいていの「卒業」は彼らと疎遠になることを意味していて,毎回さみしい思いをしていた.でも今回は,(業界や会社柄もあるかもしれないけど)ほぼみんながTwitterやFacebookを使っている.TLを眺めればみんなはそこに「いる」し,もしかしたら普段から,Web上で仲間と接している時間のほうが長いかもしれない.

そんなこともあるのか,退社時,別離のさみしさを "それほどは" 感じていなかった.
(それでも,もらったメッセージや写真を見返したら,なんとももう,ひとりひとりと直接話をしたいような気分になって,あぁこういうことなのかなあ…としみじみ思ったりもした)
(あと,「お別れのメッセージ」は,書いた人の個性が如実に表れていて,実におもしろいです)

もちろん「リアルとつながるネット」はあくまでWebの一側面であって,これがすべてではないし,そうあってもほしくないと思うんだけど,なんだか不思議なものです.

2011/06/18

仕事を通して感じたこと

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15ヶ月間の仕事を通してはっきりと感じたことを2つあげてみます.(学んだ というと何か違うような気がしてます.)

1. 物事を決めるのは意志である
2. 魅力的な人は,学び続け,本質を外さない

ほかにもいくつかあるのですが,とりあえずこれらが大きいのかなと思います.


1. 物事を決めるのは意志である
データを集めて,人が顔をつきあわせて話をしても,物事が「決まる」わけではない.そうではなくて,意志をもった個人が,物事を「決める」必要がある.世の中の問題にはたいてい確実な解が存在しないか,または確実な解に到達するためのコストが非常に高いから,ある程度から先は,意志でもって,決め打ちで解を出してしまわなければならない.

ある程度確実な「事実」の上に新たな「事実」を積み重ねていく自然科学の考え方では,確実な(と考えられる)解に到達するために許容できるコストが比較的大きい.
その一方,スピードや新規性が重視されるビジネスの世界では,自然科学ほど厳密に物事を予測する必要がなく,解に到達するために許容できるコストがとても小さい.そのため,ビジネスの世界では,自然科学の世界以上に,物事を意志で決め打ちして先に進む場面が多くなる.

これまで前者の考え方に染まってきた自分にとって,後者の考え方は新鮮だった.この考え方は,不確実性が大きい場合や短時間で結果をださなければならない場合に,とりわけ有効となる.そのような場合は,入念に物事を予測しても外れる可能性が大きく残るし,予測に時間をかけるくらいならさっさと実行してしまったほうがいいということになるから.

また,これを逆に言うと,物事を決める意志のないところには何も価値が生じないし,意志を持たないと簡単に流されてしまうということにもなる.惰性で集まるMTGは時間の無駄ということだし,言われた仕事をこなしているだけでは,意志をもった他人に利用されているだけで,たぶん目的の場所にはたどりつけないということ.

とはいえ,意志で何かを決めるということは,責任をもつということと表裏一体で,たいていの場合,それなりの苦しみをともなう.意志をもたないようにしてこの苦しみを避けるほうが楽なのであれば,それはそれで別にいいのかもしれないけれど.

また,仕事はチームで行なうため,合意のもとに意志決定をする必要がある.そして,その際に重要なのが,共通の価値基準になる.自然科学ではロジックだし,企業であれば理念やビジョンがこれにあたるんじゃないかと思う.
価値基準が定められていても浸透していなかったりすると,物事を決めるときに色々な考えをもった個人が自分の望むほうに結論を引きこもうとして,時間やコストが余計にかかり,解も本質を外したものになりやすい.
逆に,多様な視点をもちながらも目的を共有したメンバーが集まれば,大きく広げたアイデアをきれいに収束させて,とても楽しい仕事ができる.


2. 魅力的な人は,学び続け,本質を外さない
どんな組織にも,すてきだなあと思う人がいる.会社で出会ったそういう人たちを見ていて,彼らの特徴が初めてなんとなくわかったような気がする.それは,学び続けていることと,本質を外さないこと.

2-1. 学び続ける
嫌でも勉強しないといけない学生時代が終わると,学び続けている人とそうでない人の差が大きくなっていくのかもしれない.身につけた知識や技能が有用で効果的であるほど,コモディティ化も早くなって,多くの場合は,量やごまかしに特化しなければ取り残されてしまうようになる.それを避けるためのひとつの方法が,常に学び続けるということ.

学ぶこととは,外部環境に対して素直に眼を開くことと同義かもしれない.多くの場合,外部環境の変化は自分でコントロールできない.だからといって,外部環境の変化という厳しい現実から眼を背けることは,一時の安心こそ与えてくれるが,長期的にみると賢い選択ではない.学びという行為は,その厳しい外部環境の変化に,柔軟に適応していくための手段なのだと思う.

勉強は「強いて勉める」と書くくらいだから,続けていくのは楽ではない.それでも.新しい情報を得て技術を自分のものにして,楽しみながら学び続ける人たちがいる.少なくとも私は,そういった人たちに魅力を感じる.私自身が「知ること」に価値を置いているからであり,前向きな気持で物事を吸収していく様子は純粋に素敵だから,ということもあるかもしれない.

2-2. 本質を外さない
本質を外さないとはどういうことかというと,疑問をもつことだと思う.いろいろな物事に対して,それは本当か,もっと良いアイデアがあるのではないか,と考えてみるということ.
そしてもうひとつ重要なのが,自分のやり方でその疑問を表現すること.正面きって指摘することもあれば,自分の技術を使ってルールをhackすることもある.

疑問をもつところまではたいていの人がやっている.問題は,たぶん,その疑問を表現するかどうかにある.これを言ったら相手から嫌われるかもしれないとか,自分は間違ってるんじゃないかとか,どうしてもそういう恐れが出てきてしまう.また,自分の意志や行動について,相手から疑問を提示されると,多少どきっとするところがある.

それでも,すてきなチームですてきな仕事をするためには,疑問を表現しなければならない.疑問の表現は必ずしも否定ではないし,まして感情的な攻撃でもない.疑問を表し,それを解決することで物事は深まり磨かれていくし,そのプロセスにこそ仕事の楽しさがある.自分自身が,表面的な解に満足せず,疑問を表現することに躊躇しないようあれば,そして周りの人々もそうであれば,きっと刺激的な時間と本質をついた成果が得られる.


まとめ
以前からなんとなく思っていたことが,会社で働いてずっと明確になりました.それは以下のとおり.

1. 物事は意志でもって決めなければならない.
意志のない仕事は,非効率で,それほど大きな価値を生まない.

2. 私にとって魅力的なのは,学び続け,本質を外さない人.
・学び続けることで,外部環境の変化に柔軟に対応していくことができる.
・本質を外さないとは,疑問をもち,それを表現するのに躊躇しないこと.

2011/06/01

退職します

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2010年度に新卒で入社して1年と数ヶ月勤めた会社を,このたび,退職することにいたしました.今後,私は大学院に戻り,修士課程の頃から引き続いて,自然人類学(生物としてのヒトを,進化や文化などの観点から解釈し理解しようとする分野)の研究をする予定です.
お世話になったみなさま,本当にありがとうございました.この1年あまりの期間で,視野が広がり,自身の軸が明確になりました.たくさんの魅力的な方に出会い,大いに刺激を受けました.そして,これからもどうぞよろしくお願いいたします.(といっても,退職日はまだ少し先ですが)


…さて,このエントリの本題に移ります.ここでは,なぜ私がそのような決断をするに至ったか書いてみたいと思います.

今回の選択をするにあたって,考えたことが3つありました.

 1.自分のしたいことは何か?
 2.自分は何において価値を創り出せるのか?
 3.これからの社会では何が必要とされるか?

これらを順に見ていくことで,退職に至る経緯とその理由が説明できるのではないかと思います.


1.自分のしたいことは何か?
修士1年で進路を決めた際,私は,アカデミックな世界に残り自然科学の研究をつづけるか,民間企業に就職してビジネスに携わるか,大いに選択を迷いました.最終的には,研究を人生の目的にしていいものか答えを出しきれず,また,アカデミックな世界にちょっとした息苦しさを感じていたことから,就職を選択しました.

しかし,内定後から入社までの期間と,入社後約1年の期間に,非常に大きな出会いと意識の変化があり,私は,自分のしたいことは研究なのだとはっきり理解し,またアカデミックな世界に戻る覚悟を固めることになりました.

詳細は省いて簡単に説明します.
ビジネスの世界で実際に仕事をして,「科学」に関する活動から離れた時間を過ごすことで,保育園の時代から触れてきた「科学」が私のアイデンティティにいかに深く根をおろし,興味関心の方向や価値観に大きな影響を与えていたかということに気がつきました.
また,どのような世界で生きていくにしろ,やりたいことをできない原因を外部に求めてあきらめてしまうのではなく,とにかくやってみれば良いのだということを思い出しました.人から何と言われようと自分がしたいことをすればいいし,実際にやりさえすればそれは可能なのだ,と気づいたわけです.

人生において一番の価値を置く対象は人それぞれだと思います.私の場合,それは,研究という手段を通してヒトの進化や行動を「知ること」でした.他のものもあるに越したことはないですが,「知ること」ができればひとまずそれで十分だと,1年あまりの会社勤めを通して,あらためて気づいたのです.
このようなわけで,私は,人生の目的をひとまず自然人類学の研究に置くという決断をしました.巨人の肩の上に立ち,自身のアイデアをもとに少しだけ遠くを見ることができればと思います.


2.自分は何において価値を創り出せるのか?
この1年のあいだの仕事を通して,自分の手でモノを創り出すことができるエンジニアという人々と接し,一方の私自身は何において価値を創り出せるのか,ずっと考えつづけていました.エンジニアの人々が,プログラムを通してアイデアを次々とカタチにしていくのを見るにつけ,企画や管理ではなく実際にモノを創り出したいという想いが強くなっていきました.短い人生において,楽しみながら,自分なりの価値を効果的に創り出せるフィールドは何なのか,この間,必死に考えていました.

答えは,身近なところにありました.
実は入社後も,大学院の指導教員だった先生にご協力をいただき,業務とは別に論文を書き,わずかながら研究もつづけていました.2011年の1月,海外の学会誌に投稿した論文がreviseされ,1ヶ月以内の改訂と再投稿を求められました.ここから1ヶ月間,会社の業務時間外に,論文を直し追加の研究を行いました.

このとき,自分の研究成果が世界からきちんと認められたことと,私の場合は,研究こそが,問を立て,自分の頭で考え,手を動かして新たなモノを創り出していく手段だったのだと,はっきりと理解しました.指導教員の先生の力添えなくしては成し得なかったことではありますが,このことを通して,研究というフィールドにある程度たしかな手応えを感じたのでした.

ある種の物事は,自分にとって大切なほど,それをすることが当たり前になり,そのことがどれだけ価値あることなのか,客観的に気づきにくくなるように思います.私にとっては,研究がそういうものだったのではないかと思ったりしています.


3.これからの社会では何が必要とされるか?
裏付けのない肌感覚ですが,いま,日本の社会は大きな変化の時期にあると感じています.
たとえば,
@sayuritamaki さんの『創職時代
@kawayasu さんの『人生をリストラする
こういったエントリに,そのあたりの感覚がまとまっているように思います.

まったく個人的な意見ですが,私は,これからは,外部から与えられた価値判断基準が以前ほどは信用できなくなり,個人個人がそれらを新たに見出し創り出さないといけなくなるだろうなと感じています.今と同じような生活水準を,10年後も,みんなが保てるかどうかはわかりませんし,もしかしたら,20年後,日本という国自体がなくなっているかもしれない.そんな状況のなかで,外部環境の変化に攪乱されずにハッピーな人生をおくるには,価値判断基準の出どころを,自分自身の内側にもってくる必要があると考えています.

仕事だって同じだろうなと思っています.どんな大企業だったとしても,いま働いている会社が10年後にまだ存在しているかはわからない.今後,もっと,仕事は外部から自動的に与えられるものではなくて,自分から創り出すものになるかもしれないと感じています.所属している組織とか役職とか,そういう外部から与えられたラベルは本質ではなくて,グローバルな視点で,誰かに喜んでもらえる何かを創り出す力を自分自身が持っているかどうか,それが重要になってくるのではないかと.(創職というやつですね)

そうした観点に立って,人生を眺めると,与えられた環境で与えられた問題を解いているより,そういうラベルをできるかぎり振り落として,自分の力で問題をみつけることに挑戦したいと感じました(その手段として研究を選んだわけです).そのほうが,仕事を創り出す力を養うことができ,なにより自分自身が,変化していく社会のなかでもハッピーに生きていけるだろうなと思ったのです.

もちろん,研究はうまくいかないときの方が多くて,研究以外のことにも心を悩ますでしょうし,この先もしかしたら,こういう選択をしたことを後悔する瞬間が何回も訪れるかもしれません.また,Natureのこの記事にあるように,この先は研究者だって相当大変だろうと思います.
"Education: The PhD factory"
それでも,何にしたって自分で仕事を創り出す必要があるのなら,自身の望む分野でそれに挑戦したほうが良いのではないかと思うのです.

「常識」や「当たり前」は知らずのうちに忍び寄ってきて,人生を縛るようになります.私だってまだまだ縛られていますし,必ずしも,縛られないほうがいいというわけでもないかもしれない.しかし,私たちが,自分の人生を自由にできる自由を持っている以上,自分の頭で考えて,すこしでも楽しい環境を選び取り,創りあげていくために,「常識」や「当たり前」に疑問を投げかけてみることも重要ではないかと思うのです.そうして見出した自分にとっての真実に嘘をつかないで生きること,それが,大きく変化する社会で幸せに生きる手段のひとつではないかと思うのです.


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以上,こんなことを考えて,私は退職を決めました.

長々と書きましたが,結局,理由は「人類学の研究をしたいから」 という一言でまとめられるのかもしれません.ある程度大きな問題を見出し,それを解きうるアイデアがあふれてきて,わくわくして,我慢できなくなってしまったような状況です.人の興味は移り変わっていくものですし,数年経ってみたら,研究なんか大嫌いだとかなんとか言っていたりするかもしれません.しかし,今の私にとっては,このような感情がまぎれもない真実のようです.

会社で過ごせる時間も残り少ないですが,自分にできる最大限の価値を提供して退職日をむかえられるよう,気を抜かずにいきたいと思います.

2011/05/24

子育てにはコストがかかる

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先日,「治部れんげ氏講演会 共に歩む未来のために 〜男性研究者・学生のための共同参画〜」に参加してきました.

講演のことは,

共に歩む未来のために 〜治部れんげさん講演会。盛会でした。(けやきのき)」

イクメンを目指す男子向けの講演@東大に行ってきたよ 〜治部れんげさん「男性のワークライフバランス」〜(kobeniの日記)」

フェアな人ほど大変?~治部れんげさん 講演会(外資系IT企業につとめる男性社員の育休日記!)」

などにまとまっていますので,ここでは特に私の印象に残ったことを書いてみようかと思います.


それは,子育てにはとてもコストがかかる,ということ.


実際に子育てをされている方からしてみればあまりにも当然のことなのかもしれませんが,今回の講演でそのことがある程度理解できたように思います.
男性または女性とそのパートナーが一緒に暮らしているだけなら,行動の自由度もそれなりにありますし,出費や必要な住空間もふたり分で済みます.しかし,そこに子育てが加わると,まず,いちばんの弱者である子供に生活リズムや行動をあわせる必要があり,また,子どもが増えるほどお金や空間もたくさん必要になってきます.そして,子どもの生活リズムと相容れないペースで動いている社会と交渉し,柔軟に子育てと生活を続けていくためのコストが生じます.

このコストはやはりとても大きなものなんだなあというのが講演を聞いての印象です.それがゆえに,講演で話があった以下のようなことが起きるんだろうと思いました.

・妻に対してフェアな(家事や育児のコストを妻とシェアする)男性は,まったく家事をせず仕事により多くの時間を割く男性との社会的な競争において不利になる.

・「女性にやさしい」と言うことと,実際に自分のパートナーに対してそのように行動することは,フィギュアスケートを見るのとやるのくらい違う.


ほかにもいろいろ得るところの多い講演会でした.
・"配慮"よりも公正な処遇を.
・能力がある人は個別交渉で勝ち取ることができるが….
・子育ては,生物学的には生産なのに対し,現代の資本主義社会においては消費であり,齟齬が生じている.
などなど.


霊長類のなかでもヒトは特にユニークな生活史をもっており,そのような性質がなぜどのように進化してきたかは,人類学においても古くから注目されてきたテーマのひとつです.この性質と現代社会の生活環境のあいだにどのような齟齬が生じているのか,もっと具体的に知ることができたらおもしろいなと,そんなことを考えたりもしました.

2011/05/07

読みたい本リスト

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ゴールデンウィークに実家の荷物を整理していたら,昔(中学〜高校くらい?)書いた,読みたい本(外国の作品)リストがでてきたので,転載してみます.
さながら世界文学劇場のよう.
すでに読んだことのある本には◯を付記しておきました.

国内の作品バージョンも書いた記憶があるのだけれど,残念ながらそちらはでてきませんでした…

シェイクスピア
・ロミオとジュリエット ◯
・オセロー
・リア王
・真夏の夜の夢
・マクベス

スタンダール
・赤と黒 ◯
・パルムの僧院

バルザック
・ゴリオ爺さん
・谷間の百合
・農民

ジッド
・背徳者
・狭き門 ◯
・にせ金つかい

プルースト
・失われた時を求めて

テグジュペリ
・夜間飛行 ◯
・人間の土地 ◯

サルトル
・嘔吐
・壁
・蠅

カミュ
・異邦人 ◯

サガン
・悲しみよこんにちは
・ブラームスはお好き

ゲーテ
・若きウェルテルの悩み ◯
・ファウスト ◯

マン
・魔の山 ◯

ツルゲーネフ
・ルージン

ドストエフスキー
・罪と罰 ◯
・白痴 ◯
・カラマーゾフの兄弟 ◯

トルストイ
・戦争と平和
・アンナ・カレーニナ
・イワンのばか ◯

チェーホフ
・かもめ
・ワーニャ伯父さん
・三人姉妹
・桜の園

2011/04/01

したいことをすればいい。

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「したいことをすればいい。」
これは、ここ1年で得た、人生における最大級の学び?のひとつだ。

まず、「したいことをする」ためには以下2つのことが必要になる。

1. 自分の「したいこと」を知ること
2. 「したいこと」を前に自分を抑えないこと


1. 自分の「したいこと」を知ること

人生の目的(=したいこと)を決める、ということは、その目的以外の可能性をあきらめる、ということでもある。
人生の無限の選択肢を自分から捨てて、そのうちのひとつに賭けるのには、大きな勇気がいる。
うまくいけば達成感も大きいが、そのためには長く苦しい努力が必要になることも、みんな知っている。
だから、人は躊躇する。
…コストをかけて挑戦しても、失敗するかもしれない。
…もしかしたら、ほかにもっとよい選択肢があるかもしれない。

そうして、本当に「したいこと(=人生の目的)」を考えないようにして、目の前に次々あらわれる現実的な問題を切り盛りすることで気を紛らす。
心の中では、きっとチャンスがめぐってくると思いながら、チャンスをつかみにいくほどの積極性も持つことができず、日々が過ぎていく。

例をあげてみる。

夏目漱石は、「したいこと」を30歳過ぎるまで決めきれなかった。

腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。

(夏目漱石 『私の個人主義』)

参考:「私の個人主義


(好き嫌いはひとまず置いておいて、)孫正義なんかも言っている。

登りたい山を決める。
これで人生の半分が決まる。

(孫正義 『孫正義 LIVE 2011 その1』)

だけど、登りたい山を決めてない人が、腹の底から決めきれてない人が、実は99%なんです。

99%の人がしっかりと腹の底から自分の登るべき山を、自分の夢、自分の志を決め切れてない。

(孫正義 『孫正義 LIVE 2011 その3』)


「したいこと」を知らないままにしておく人生、本当にそれでいいのだろうか?
あり得たはずの可能性を追い求め、軽い失望と浅い喜びを繰り返して、気づいたときには、すっかりすり減った自分しか残っていない。
…そんなふうになってしまうんじゃないか。

私は、失敗したっていいし、ほかの可能性がすこしくらいおろそかになってもいいから、自分の信じた道を進んでみようと思うようになった。
それが、自分にとっていちばん楽しいことであり、「海鼠のように」生きているよりもよっぽど「生きている」ことにつながると気づいたから。


2. 「したいこと」を前に自分を抑えないこと

それが自分のしたいことであっても、「当たり前」でないことをするのは困難だ。
周りの人の目を気にする自分が、自分自身の衝動を抑えてしまうから。
しかし、この「当たり前」とはなんだろう?
多くの人が当たり前と考えていることが「当たり前」になるのかもしれないけれど、だからといって、必ずしも、それがすなわち自分にとっての正解になるわけではない。

自分にとっての正解でないことは重々承知しているが、それでも、みんながやっているから、白い目で見られて仲間はずれにされたくないから、仕方なく「当たり前」にしたがうということもよくある。
でも、他の人から白い目で見られて、仲間はずれにされたところで、だからなんだというのだろう?
世の中には実にたくさんの人がいて、実に多様な価値観がある。
自分の狭い視野に見えている範囲外にも視界を広げれば、「当たり前」でない考え方を受け入れてくれる人やコミュニティはたしかに存在する。

また夏目漱石の例を出す。
彼は「自己本位」という言葉でこの概念を表している(と私は解釈してます)。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

(夏目漱石 『私の個人主義』)

参考:「私の個人主義


そして、もうひとつ、『カモメのジョナサン』などを著したリチャード・バックからの引用。

リチャード、君はまだわかってないよ、もちろんやめられるんだ、やめたければ何だってやめられるよ、気が変わったらね、君が望むのなら、息をするんだってやめられるぜ。

自由が欲しいときは人に頼んじゃいけないんだよ、君が自由だと思えばもう君は自由なんだ。

(リチャード・バック著、村上龍訳 『イリュージョン』)

信念に従った行動が「当たり前」に反していた場合、それは多くの人から反感を買うかもしれない。
でも、もう一度言うけど、そんな反感が、だからなんだというのだろう?
信念にしたがった行動によって得た1人の仲間は、非常に心強い味方になる。
その一方で、信念を偽って、外向きの自分をおとなしく演じて、100人の人から支持されたとして、自分はその100人を心からの仲間と認め得るだろうか?
外向きの自分が評価されたとして、そんな偽りにだまされてしまうような人たちからの賞賛は、はたして本当の賞賛なのだろうか?
(もちろん、それでもまったくかまわない、という態度も十分ありだと思うけれど。)

私は、それよりも、「当たり前」なんかそれほど気にせずに、信念に従った行動を軸にしたほうがよさそうだと思った。
家庭、幼稚園、学校、会社、…、人がコミュニティをつくるところにはほとんどすべて、「当たり前」の制約があらわれる。
この「当たり前」の制約にしたがっていれば、コミュニティのなかで、表面的には幸せに暮らせるかもしれないけれど、それで果たして自分は満足なのか?
また、そのコミュニティの外にでたとき、コミュニティが存在しなくなったとき、それで生きていけるのか?

この1年のあいだに、実にいろいろな刺激があって、私は、知らず知らずのうちに閉じ込めていた「当たり前」を疑う心を、再び思い出した。
(それでも、まだまだ疑いきれていない。だからこんなブログを書いているのかもしれない。)


まとめ

私がこの1年で学んだのは、「したいことをすればいい」ということだった。
そしてそれは、以下の2つに要約される。

1. 自分の「したいこと」を知ること (リスクをとって挑戦する勇気をもつこと)
2. 「したいこと」を前に自分を抑えないこと (「当たり前」を疑い、自身の信念を信じること)

…長くなり、内容もなんだかまとまらないものになってしまったけれど、とにかくそういうことです。

2011/03/18

TOEFL・英語学習説明会

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3/12(土)に参加してきた「TOEFL・英語学習説明会」のまとめ。


参考
主催の青谷正妥先生のwebページ
参加のきっかけになった渡辺千賀さんのブログ


以下、箇条書きにて。

■英語の勉強について
・英語で考えるということ -> そんなに簡単にできるわけがない!できなくて当たり前。だからがんばれ、だから落ち込むな。
・大人の英語学習とは「勉強」である -> 「吸収」ではない。納得づくで組織的に学ばなければならない。ここを間違えるから、ほぼ全員が失敗する(勉強してもしゃべれない)。
・話せるようになれば、英語で考えられるようになる。逆ではない。
・受験勉強と同じ。とりあえずやる、とにかくやる。努力を続け続ける。


■TOEFLについて
・日本人はSpeakingの点が特にひどい傾向がある(他もひどいが、これがいちばんひどい)。
・「運用力」を見ているので難しいし、ごまかせない(読みながら聞く、話しながら考える、…)。
・厳しい時間制限があるため、「はやさ」が重要になる -> 英語学習の際に意識すべき(そしてよく盲点になっている)点。
・英語のインプットは、単語がわからなくても推測ですき間を埋められる。しかしアウトプットは、一単語でもわからなかったらできない。


■それ以外
・人をみかけで判断しない。
・多く長く大きく厳しく。


とにかくやるしかない、ということがよくわかりました。

2011/03/10

私の個人主義

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先週、夏目漱石『私の個人主義』を読んだ。

漱石の言いたいこと・気持ちが、手に取るようにとてもよくわかったような気がした。
長い悩みと迷いの後に、自分のすべきことが見えたときの気持ちが、そこに表れていた。
そして、すべては自分しだいであるという強さが見えてくる。

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。

私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝な日を送ったのであります。

こんな迷いが、

ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。

という気づきに変わる。そして、

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

という「自己本位」を手に入れる。

この「自己本位」という言葉、何を意味しているのかはとてもよくわかるのだけれど、それを言い表せるちょうどいい自分の言葉がなかなかみつからなかった。
(これをうまく言い表せなかったため、『私の個人主義』を読んでこのエントリを書くまでに一週間以上の時間が空いた。)

それでも、やっとなんとかみつけることができて、それは、「したいことをすればいい」ということだった。
これについては日を改めて書くことにしたい。(書きました

最後に、ちょっと勇気づけられる一文を。

腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないとおっしゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越しているとおっしゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのであります。しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。

漱石ですら、30歳に至るまで、自分の「したいこと」をみつけられなかった。
20年以上生きてきてやっと、自分は「したいこと(人類学の研究)」に気づいたけれど、まだまだ遅くはなかったな、とあらためて思ったりした。

2011/02/28

「すべき」ではなく「したい」ベースで考える

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公開用のブログのエントリの転載


個人や組織が活動する際、何をするか、具体的に決める必要がある。
そのとき、理想論にとらわれて「すべき」ベースでものごとを考えると、本質をはずすおそれがある。

何事においても、活動内容を決めれば自動的に活動がおこなわれるわけはなく、個人が、組織を構成するひとりひとりが、その活動を実行していく必要がある。
個人の行動にはモチベーションが必要であり、この点で、「したい」ベースの決定がアドバンテージをもっている。

「すべき」ベースでの決定は、「本当はしたくないし、正しくもないかもしれないけど、そうすべきと決まったことだからやらなければならない」という盲従を生み、盲従は、活動を誤った目的地に導く。
それに、「すべき」ベースの活動は、やっていて楽しくない。

だから、何事も「したい」ベースで考えれば自然ではないか、とそう思う。

2011/02/20

科学コミュニケーションと寺田寅彦

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公開用のブログに書いた内容の転載。


科学コミュニケーションの目的は、「科学やその楽しさを伝えること」であって、「科学コミュニケーションをすること」ではない。

そんなことを考えていたら、寺田寅彦の随筆にぴったりな文章があったので、抜き出してみる。

思うにうっかり案内者などになるのは考えものである。黒谷や金閣寺の案内の小僧でも、始めてあの建築や古器物に接した時にはおそらくさまざまな深い感動に動かされたに相違ない。それが毎日同じ事を繰り返している間にあらゆる興味は蒸発してしまって、すっかり口上を暗記するころには、品物自体はもう頭から消えてなくなる。残るものはただ「言葉」だけになる。目はその言葉におおわれて「物」を見なくなる。

職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である。自分の日々説明している物を絶えず新しい目で見直して二日に一度あるいは一月に一度でも何かしら今まで見いださなかった新しいものを見いだす事が必要である。

考えてみると案内者になるのも被案内者になるのもなかなか容易ではない。すべての困難は「案内者は結局案内者である」という自明的な道理を忘れやすいから起こるのではあるまいか。景色や科学的知識の案内ではこのような困難がある。

寺田寅彦 『案内者』 より

何事によらず、気をつけた方がよさそうですね。

2011/02/19

組織やイベントの運営における「適当さ」について

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公開用のブログに書いた内容の転載。

組織やイベントの運営には、「適当さ」が必要である。
あってもいい ではなく、必要 だと思っている。

こういったものを運営する際、やはりある程度までは、文章をつくって、スケジュールを立てて、人員を配置して、…と、「きちんと」仕事を進めなければならない。
しかし、人を対象に人が行う活動には、どうしても不確定要素が生じる。
生じた不確定要素に対して、多くの場合、事前に「きちんと」決めた計画は対応できない。
これに対応するのは、人の柔軟性やその場の機転になる。

そして、事前に方向性を定めておくことができない柔軟性や機転において、本来の目的や理念を外さないようにするためには、それを行うメンバーに、組織・イベントの目的や理念が共有されている必要がある。
事前に「きちんと」決めた計画に比べて、柔軟性や機転は、ミクロな視点の問題解決には有効だが、マクロな視点の目的達成に弱い。
しかし、柔軟性や機転を発揮するメンバーが、マクロな視点(組織・イベントの目的や理念)をわきまえていれば、この点をかなりの程度補うことができる。

「適当さ」は、裏を返せば、「余裕」でもある。
余裕のない活動は、そもそも楽しくないものになりがちで、楽しくない活動は、メンバーのモチベーションを下げる。
モチベーションの下がった組織や団体からは、やはり、どうしても良い成果は生まれづらい。

不確定要素をゼロにすることができない以上、また、感情をもった人が行う活動である以上、組織やイベントの運営には、「適当さ」が必要である。
人をロボットかなにかと同じように考えて、事前にすべてを「きちんと」計画しようとした活動は、たいていの場合、つまらないものになりがちで、ちょっとした突発的な問題に対して非常に脆弱である。

2011/02/15

論文を書く = 人に伝える

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今回実感したことがもうひとつある。

「真理を追究すること」は「追究した真理を人に伝えること」とセットになってはじめて意味を持つ、ということだ。

自分たちの思考なり試行なりを、論文という媒体を通して、それを読む人の脳内に再現させなければならない。
論文がおもしろいのは、文章だけでなく、図や表や全体の構成も、表現の重要な一部になるというところだ。
もし、意義のある発見をしたとしても、それを人に伝えることができなければ、成果と見なされず、埋もれていってしまう。

科学者は、真理の追究者という側面と、文章を駆使する表現のエンジニアという側面をもっている必要があるのではないだろうか。

2011/02/14

基準を理解する

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先日来の論文を、先生の多大なるご協力をいただいて昨日ようやく再投稿し終わり、一息ついたので、今回感じたことを書いてみる。

まず、科学の基準というか、ルールというか、それが実によく体感されて理解できた。

論拠として何を示せば、その主張が妥当と考えられるようになるのか?
そして、何をもってその論拠の正確さを保証するのか?

分野ごとにレベルの違いはありながらも、科学であるならば、上記を満たす答えを用意する必要がある。
つまり、どのくらいの基準を満たせば科学として認められるか、という暗黙の了解のようなものが、どの学問分野にもあると思う。

勉強をつづけてきて、卒研や修士の研究を経てきて、この基準について頭ではわかっていた。
しかし、実際に、真剣勝負の科学の最前線でそれを体感したのは、(当然といえば当然なのだけれど)今回がはじめてだった。

reviseが返ってきたとき、最初に感じたのは、「これくらいの基準なのか」という納得感だった。
そして、慎重にやれば、科学の基準を踏み外すおそれはないということがわかり、ある程度の安心を感じた。
基準・ルールがわかっているなら、おそるおそる周りを探るのではなく、その範囲のなかでのびのび動き回ることができる。
そして最後に、すこし苦しんだ。自分が基準を外していないということと、自分が基準を外していないということを人に伝えることは、やはり少々異なる物事だった。

総じて言えば、自信を得た。そして、楽しかった。
また同時に、「研究者」としての自分の未熟さも理解することができた。英語の表現、研究のストラテジー、研究報告の型、…学ぶことはまだまだたくさんある。

100ページを超える修士論文を書くよりも、数10ページの投稿論文を書くほうが、得るものははるかに大きい。そんな1ヶ月だった。

2011/02/10

楽しさは与えられるものじゃない

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楽しさって、決して、与えられるものではない。
与えられた「楽しさ」はほんとうの楽しさではない。
そう思う。

モノゴトがつまらないのであれば、自分が楽しくしてやればいい。
つまらないモノゴトを、遊んでしまえばいい。
その過程こそがなによりも楽しいんじゃないの?
と、そんなふうに考えている。

「常識」とか、ほかの人の言っていることとか、そんなもの全部忘れて、やってみればいい。
そしたらきっと楽しいから。

何において輝くか

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仕事を通して、きらきらしている人に出会う。
次々と新しいものを創り出すエンジニアの方、人の心をとらえて硬直した組織を動かす企画の方、…。
そういう人に出会うたび、この仕事もまだまだ捨てたものじゃないなと思う。

でもその反面、そのような人に出会い、刺激を受けるたびに、自分はどうなのだろうかと考えずにはいられなくなる。
自分は何においてそのように輝きたいのか、何において輝けるのか。

すてきなエンジニアのようになりたいとして、では、彼らと同じくらいのプログラミング技術を身につけるのにどのくらいの年月がかかるのか?
組織を動かせたとして、それは自分が生涯をかけて追い求めていきたいテーマなのか?

やっぱり、なにか違う。
興味もあるし片手間に(でも本気に)つづけることは望むところなのだけど、それらは自分にとっての本質ではない。
で、その本質のために、今の環境で何がどのくらいの効率で得られるのか?
この問題が、ここしばらく頭を悩ませている。

2011/02/06

自身を表すラベル

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大学院を卒業して以来、自分自身が何によってかたちづくられているか、ずっと考えさせられていた。

学生でいたあいだは、「生物学をやっています」「人類学をやっています」と胸をはって答えることができ、まさにこれらが自分自身を表していたと感じていた。

しかし、会社員になってからは、自分が何者であるか、人に伝えるのが難しくなった。
自分はエンジニアでもなく、ビジネスパーソンでもなく、仕事については、胸を張って人に伝えられることが何もなかった。
したがって、自分自身を、ある企業の社員であると紹介することによって、かならず、相手をあざむいているような気分になった。
プログラミングを学びはじめて、また、仕事がある程度目に見える成果につながるにつれて、この心苦しさは緩和されてはきたけれど、それでもゼロになることはないと感じている。

もちろん、自分自身にそのようなラベルをはって、わかりやすく性格づけするのが最適解だとは決して思っていない。
しかし、社会に暮らす以上、他人は自分をそのようなラベルのもとに眺め、それが真であろうとなかろうと、自分はそのことを意識せざるを得ない。

…あなたは普段何をしているのですか?
…あなたはどんな人間ですか?
こう問われたとき、迷いなく口に出せる答えは、自分自身を縛るかもしれないが、ときには自身に勇気を与える。
そんなことを考えている。

いろんな世界

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前の金曜日は、いろいろな世界を見た。

ひとつは、インターネットの最前線。
ひょんなことから、とある著名なブロガーの方と、とあるギークなエンジニアの方との3人で、ネット利用に関するインタビューを受けた。
詳しくは書かないけれど、アンテナの感度の高い人は情報の集め方が違うんだな、ということと、彼らにとってインターネットは本当に空気のような存在なんだな、ということがよくわかった。
大いに得るところがあった。

次は、アカデミアの世界。
昼休みの時間を利用して、たまたま都心に出てきていた先生と論文のreviseについて話し合った。
先週、寝る間も惜しんでプログラムを打ち込み英語を書いた甲斐あって、やっと出口が見えてきた感触だった。
こちらは再提出期限まで1週間を切った。さてさて。

最後は、テレビの収録。
こちらもたまたま訳あって、夕方から、テレビ番組の収録風景に立ち会った。
局の人々や、出演者の芸能人、そのおつきの人、そして彼らの醸し出す雰囲気、…なんだかテレビを見ているようで(笑)、おもしろかった。

現実には、こうした隔てられたいろんな世界があって、人はそのどれかで生きていて、ときには行き来することもある。
どこかに深く通じつつ、ほかの世界とも自由に行き来して、それらをつなげていくことができたら、すてきだ。
そんなことを思った、不思議な金曜日だった。

2011/02/03

うまくいかないのが当たり前

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revise中の論文にデータや新たな視点を加えるために、スクリプトを書いて、シミュレーションを走らせて、結果を検討して、…ということを繰り返していて、ふと、研究は、うまくいかないことのほうが多いものだったなと思い出した。
大学院卒業後から今までは、修士課程の研究成果をストーリーとしてまとめる仕事ばかりをしていたので、そのことをすっかり忘れていた。
この、いくらやっても思った通りにならず、うまくいかない苦しさと、けど、10に1くらい突き抜けるようにうまくいくことがあって、そのときに感じる快感と、それが研究の醍醐味だなあと、ふと思い出した。

2011/01/14

決断

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今日は本当にいろいろなことがあって、わくわくして、うれしくて、でもちょっとだけ残念で、文章がまとまらないような気もするのだけど、とりあえず書いてみる。
いくつかの決断によって、人生が動き始めたような気がして、きっと、後々まで思い出す日になりそうだ。

まず、明日からインドに行く予定だった。
有給をとり、航空チケットをとり、夜行列車を予約して、土曜日から8日間、インドを放浪してくる予定だった。

しかし、午前中に、先生(大学院でお世話になった指導教員)からメールが来て、海外の学会誌に投稿していた論文のreviseが返ってきたことを知らされた!
(会社の昼休みに)夢中になって査読者のコメントを読み、メールを返信して、その日の夕方に先生と会って直接相談をすることになった。
研究という窓を通して世界とつながる感覚と、自分の仕事が認められたうれしさが、とても新鮮だった。求めていたものが、そこにあるような気がした。

査読者からの返事はおおむね好意的で、再投稿の期限が1ヶ月以内と区切られていたものの、意欲的な改訂を行なうこともできた。
そして、その改訂に用いる方法は、自分がこれから目指そうと思っていた数理生物学の分野にかなり近いと思われる方法であり、最近勉強していたR言語を応用すれば、クリアできそうなものだった。

インドに行くのであれば、1週間仕事に穴をあけることになるので、そのための手配などをすべて済ませ、フレックスで退社し、先生との話し合いの集合場所に急いだ。
航空券のキャンセル料を調べたところ、全額だった…前日だから仕方がない。
しかし、不思議と、いつもだったら感じるはずの後悔などのネガティブな気持ちが、このときはまったくなかった。

集合場所で先生と落ちあい、ディスカッションをして、対応や今後の方針を決めた。
論点が具体的な問題で、それぞれが新しいアイデアを持ち寄って、実に楽しいディスカッションだった。
1時間半くらい話をして、最後に、今後どうやって進めるかということがテーマになった。
そのとき、自然と、インドには行かずに論文の直しを急ピッチで進めたいという決断がでてきた。
迷いはなくて、最初からそう決まっていたような気がしていた。

そして、席を立ったとき、前々から言わなければならないと思っていたことを先生に伝えた。
今年のうちには仕事を辞めて大学院に戻ると決めたこと、留学を視野に入れていること、数理生物学に指向があること。
先生は、とても素敵な返事とアドバイスをくれた。
…あとで思い出して、とてもうれしかった。

先生と別れて、Rの本を取りに行き、22時頃に家まで帰ってきた。
インドに行けなくなってしまったのは残念だけれど、とてもわくわくしている。

さて、ここまで書いてきて、あとは、もう寝ようと思う。
明日の朝は早く起きて、さっそくとりかかろうと思っている。
実に楽しみだ!