2012/02/16

修士課程で得たもの

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大学院修士課程卒業時に書いた文章を見直す機会がありました.いま読み返すと,考えが浅いなと思う部分も大いにありますが,あらためてハッとする部分もありました.
全文は以下にありますが,せっかくなのでこちらにも転載しておこうと思います※1

研究概要 修了生より (先史人類学研究室)

はじめに

米田研究室で何を得ることができるのか、を記します。まずは、私が何を期待して米田研に入学を決め、2年間で何を得たかについて記します。次に、その経験を一般化して、米田研に入学を考えている皆さんに私の考えを伝えたいと思います。

私の場合

私は、自然人類学という学問と、科学の行われるプロセスを学びたいという意思をもって、米田研に入学を決めました。

自然人類学は、文化を持つユニークな生き物であるヒトを、生物学的な側面から研究する学問です。ヒト個人や集団の挙動は、文化的な要因と生物学的な要因の両者から影響を受けます。私が自然人類学を志したのは、このような文化と生物の相互作用に興味を抱き、それを自然科学の論理的な視点・考え方から研究したかったためです。
自然人類学はまた、非常に裾野の広い分野でもあります。
ヒトの系統的な発生から、進化、変異、生態、環境などを古人骨、石器、遺物、人体、霊長類、歯、食物などを研究対象とし解明してゆく分野です。学問分野としては先史学、考古学、古生物学、年代学、霊長類学、遺伝学、生態学、解剖学、生理学などと境界を接しています
日本人類学会のウェブページにあるように、さまざまな学問分野と接点があり、さまざまな視点からの研究が可能です。そして、それぞれの視点には、ひとつの学問としての奥深さもあります。修士での研究を通して、自然人類学のこの裾野の広さと奥深さに魅せられました。

私は学部で生物学を学び、大学院で自然人類学を学び、現在はインターネット関連の企業で働いています。企業で働くという選択をした理由のひとつに、文化的な側面から人類を眺めたかったという想いがあるかもしれません。つまり、生物学:人類を含むすべての生物の基礎、自然人類学:文化と生物の相互作用、インターネット:人類のつくりだした最先端の文化、というように文化・生物・その相互作用をそれぞれ学びたかったわけです。将来のことはわかりませんが、いずれ文化と生物の相互作用について新たな知を生み出したい、と考えています。

科学は、問いをたてる→仮説を考える→データを集めて分析→物語をつくる、というプロセスによって行われていると考えています。まず、未知のことがらのうち研究に値するものを選び出します(問いをたてる)。次に、そのことがらについて仮説をたてて、研究の方針を定めます。そして、実験や文献などのによってデータを集めて分析し、それを論拠に主張を組み立て、ひとつのパッケージを論文などの形で発表します(物語をつくる)。私は、学部では分子生物学の卒研を通して、データ集めと分析を中心にスキルを蓄えました。そして、科学の一連のプロセスを習得するために、それ以外の要素についても実践しながら学びたいと考え、大学院に進学しました。

このような想いに対し、米田研にはふたつの利点がありました。ひとつは、一般的な分子生物学の研究に比べて「物語をつくる」という要素の比重が大きい点、もうひとつは、研究プロジェクトが個人単位であるため科学のプロセスすべてに関われる点です。先史人類学は歴史科学の側面も持つため、厳密な実験結果を積み重ねて再現可能な事実を求める過程(データ集めと分析)だけでなく、データが具体的に何を示すのか自分なりの説明を組み立てる過程(物語をつくる)も重要です。また、個人単位で研究プロジェクトが進行するため、修士過程の学生であっても、研究を自ら運用して論文投稿までもっていくことができます。データ集めと分析以外の科学のプロセスも重点的に学びたいと考えていた私にとって、米田研の研究のこうした特徴は魅力的でした。

ただ、科学のプロセスを習得するのに2年間は短い、ということを実感したのもまた事実です。科学の醍醐味と知識の源泉は「問いをたてる」ところにあると思いますが、修士の2年間ではそこまでたどり着きませんでした。また、在学中に海外学会誌への論文投稿もすることができませんでした。これらは、将来また取り組みたい課題です。

一般化すると

自身の進路を決めること、つまり自身が何をやりたいのか見極めること、は多くの人にとって難しいものだと思います。しかし、あなたにとって大学院での研究が「やりたいのかまだわからないこと」だとしたら、ほかの「やりたいこと」をすぐにでもはじめたほうが良いのではないかと思います。

若く、好奇心と可能性に満ちたあなた(私も…笑)にとって、自身の進路を腹の底から決めきってしまうのは難しいことでないでしょうか。自分のやりたいことが決してぶれず、選択した進路に自信を持っていたとすれば、それはとても稀ですばらしいことだと思います。ただ、多くの人は100%の自信をもって進路を決めきれるわけではなく、過去を振り返ってはじめて、自身の足跡が一列につながるのではないかと思います。私も大学院入学当初は、分子生物学に対してもやもやした不満を抱いており、入学後配属での米田先生のお話を聞き、研究室にある大量の本を見て、おぼろげながら「自分はもっと人文科学よりの学問を学びたいんだ」と感じました。前述したような想いが言語化できたのは大学院の卒業後ですし、修士卒で一般企業に就職するという選択に際しても100%の自信は決して持てませんでした。

しかし、そうした霧中にあるような状態でも、自分に言い訳をしなければならないような選択だけは、しないほうが良いと思います。明確な目的(つまり自身の得たいもの)を持たずに、周りが進学するからとか、修士卒の就職までのつなぎとか、そうした意識で大学院に進学するのはあまりにもったいないことです。体力があり、知識の吸収が早く、自由に社会を動ける20代の前半を、「本来やりたかったこと」を夢見ながら、目の前の研究に集中できずに漫然と過ごすのは得策ではありません。

また、大学院ではどこもそうですが、米田研では特に、自身の頭で考え、自身で最先端の道を拓く努力が要求されます。これは、学生に研究の多くを任せてくれる、ということの裏返しでもあります。つまり、先行研究をふまえて新規性のある論理を立て、主張を支える論拠に穴がないか考え抜き、穴を埋めるためにどのようなデータが必要か想像し、データの取得方法や分析・抽出方法を検討する。そうして得られた結果を、わかりやすく正確に人に伝える、というプロセスを、自身が先頭に立って進めていく努力が要求されます。こうした努力を楽しめる人であれば、米田研や多くの大学院はすばらしい場所になりますが、学問の道に進む気がなく惰性で大学院進学をした場合、このような要求は相当つらいものとなるはずです。

もし、科学研究が「やりたいかわからないが興味はあること」で、しかしそれ以外に「やりたいこと」があるのだとしたら、後者を一刻も早く選び取ることをおすすめします。逆に、たとえ博士進学を考えていなくても、明確な目的と決意をもって大学院に進学するのであれば、実りのある時間が過ごせるのではないかと思います。

まとめ

大学院は、1を10にするために「利用する」場所であり、0を1に「してくれる」場所ではないと考えています。つまり、明確な目的(学問を修めたい、研究者になりたい、など)を達成するためであれば、経験を積んだ先生・先輩方のアドバイスや潤沢なリソースを大いに利用することができますが、大学院は決して、自身の進路の方向性を指し示してくれたり、「やりたいこと」を与えてくれたりするような場所ではありません。

以上は、あくまでも私の勝手な意見です。ご自身の価値観と照らして、何か学べるところがあればそこだけ抜き出していただければ幸いです。最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。

(2009年度修士修了 蔦谷匠)

※1 「私の場合」の項など,いくつか手直ししたい部分もありますが,そのまま載せました.また,この文章は所属する組織などを代表するものではなく,個人の見解であることを付記しておきます.

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