2012/09/23

生きているようにしか生きられない

このエントリーをブックマークに追加 このエントリーを含むはてなブックマーク

「あり得た未来」に焦点をおくことは,可能性に着目しているようで,でも実はそうでもない.こうすることもできたはず,こうであっても良かったのに,なんでそうなっていないのか….そこにあるのは,過去と今を素直に受け入れられない,肥大した期待である.価値観や偏見と言い換えても良いかもしれない.

人や自分は,きっと,いろんな生き方を思い描いて,それでも結局のところ,いま生きているようにしか生きられなかった.

そして,それで十分ではないかと,あるときから思えるようになった.人に対しても,自分に対しても.

人は生きてきて,とにかく今,そうなっている.自分はどうしてここに居るんだろうとか,この人はどうしてこんなことになっているんだろうとか,考えたとき,そこに「あり得た未来」を持ち込むと,期待によって目が曇る.そのままを,愛でることができなくなる.

期待なんて必要なくて,いまここに生きてきたところを素直に観察する.「ふむふむ,そうなんだ」.本当の可能性は,きっと,そこから広がっていく.

2012/09/14

可視化された悪に憤りをあらわすこと

このエントリーをブックマークに追加 このエントリーを含むはてなブックマーク

可視化された悪に憤りをあらわすことは,自分の感情に対する揺さぶりをうまく処理する方法ではある.しかし,自分の感情を放流して,その後は顧みないようにも思えて,どうにもモヤモヤしていた.

いったい,可視化された悪に対して,私は何を言うことができるのか.
もしその悪が可視化されなかったとしたら?可視化された部分はあくまで氷山の一角だったとしたら?そうした悪に対して,私はこれまでなにかやってきただろうか?これから何か行動をおこすのか?
そしてそもそも,可視化された悪を真実として信じる理由はどこにあるのか.

しかし,そうしたさまざまな可能性を検証して,すべてについて行動をおこすのは,不可能だろう.時間も,私の感情も,有限なので.可視化された悪をひとまず所与のものとして,なんらかの認知上の処理を施す必要がある.

そうした葛藤の結果が,可視化された悪への憤りの表現,というところに収束するのだと思う.

それでも,私は,せめて自分の感情だけは消費するまいと思う.悪を感じた自分を認めつつも,その感情を吟味してみる.
手持ちの情報から,それを悪と言い切れるだろうか?私にとって人にとって,それはなぜ悪だと感じられるのか?

可視化された悪を消費してしまうのはたやすいし,それはなにより自分に負担をかけない適当な方法である.しかし,消費するだけでは何も残らない.私は,消費してしまうくらいなら,むしろ,それらその場限りの憤りを,表にあらわさないことを望む.一時的でもいいから,自分のなかに留めておいて,吟味して,その正体を納得できるまでは.