先日 (といっても10日以上前ですが…),三田の家にお邪魔してきました.
古い家を改装してあって,マスターや学生やその他の方がいて,はじめてなのになんだか落ち着ける素敵な空間でした.
参加したのは hiranotomoki さんの美術鑑賞会で,他の人の感じ方も参考にしながら,ひとつの美術作品とじっくり向きあう時間でした.
さて,そこで大いに気になることがふたつあったので,そのうちのひとつについて考えてみます.
おそらく多くの人が,権威主義的な美術鑑賞に敷居を感じているのに,なぜそうしたシステムはなくならないのか?
ということです.
他の方の考えを聞いて,自分の印象と比較して,強く感じたのは以下のことでした.
美術についての知識がないと,美術館に行っても楽しみ尽くせないような,なんだかそういう敷居の高さを感じる.
これを仮に「権威主義的な」美術鑑賞とでも名づけておきます.
どこかの偉い権威たちが,この作品は良い!と言ったら,それはほんとに良い作品であり,構図とか色使いとか歴史的背景とか,彼らの言う良さを知識として理解していないと,美術作品を楽しんだことにはならないよ,という暗黙の圧力でしょうかね.
こんな「権威主義的な」美術鑑賞の仕方が,おそらく多くの人にとって美術館を訪れる敷居を高くしているのに,どうして存続できているのかな,ということについて考えてみます.
さていきなり結論です.
逆説的ですが,美術というシステムを駆動しつづけるのに必要だったからではないか,となりました.
作品を介して資本が動き,芸術家がある程度の対価をもらうシステムを安定的に維持するには,芸術作品の「ランク」のようなわかりやすさと,競争を適度なレベルに保つ参入障壁 (敷居の高さ) が必要だったのかなと.
近所の小学生が描いた絵よりは尾形光琳の屏風のほうが「芸術的」で,美術商や市場がそう言ってるんだから認めなさいという,圧力をもった基準があればこそ,多くの人は安心して美術作品に大金を投じますし,安心して休日をまるまる使って美術館に行くのかな,ということです.
もしそういう基準がなかったら,小学生の絵も尾形光琳の絵も「まったく同じ」美術作品ということになって,市場やシステムを安定的に維持していくために必要な,稀少性とそこから生じる価値が,なくなってしまうわけです.
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