2012/04/01

チャップリン

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「チャップリンを共に見て語る会」にて,『黄金狂時代』『独裁者』『モダンタイムス』をあらためてじっくり観る機会がありました (お誘いいただいてありがとうございました^^).『独裁者』と『モダンタイムス』は小さい頃に観たことがあったようで,いくつかの場面を断片的に覚えていました.現代にあっても色あせず,夢中になっているうちにあっという間に5時間が過ぎていました.
ここでは,映画を観て,特に強く感じたことを3点,メモがわりに書いておこうと思います.

パフォーマーは手元を見ない

『黄金狂時代』の,フォークで刺したパンのダンスを見て思いました.
 パフォーマンスとは,パフォーマーと観客の相互作用といえましょう.パフォーマーが自分の手元を見てしまった一瞬に,パフォーマーの注意は自己完結して,舞台から観客の存在は消え,相互作用も消えてしまう ※1
だから,パフォーマーは,自分の手元は見なくても,ときに観客の目をじっと見つめることがある.パフォーマンスそのものより,自分の存在および自分と相互作用している観客自身の存在に,観客の注意をむけさせるかのように.恋する人を前にしたパフォーマンスであれば,なおのことそうかもしれませんが….

こっけいはつくりだされたのか

『独裁者』の演説シーンを見て思いました.
 同じ制服を着たしかつめらしい人々をバックに,いばりくさった人が手前で演説をぶっていて,オーケストラか何かのようにときたま大歓声が交じる.表向きは大真面目ですが,すくなくとも私にとってはひと目見てわかる,こっけいな雰囲気がかもしだされていました.
ですが,なぜ私は (一般化して,人は) これをこっけいに感じるのでしょうか…?こうした場面がこっけいであるという概念を,そもそもチャップリンがつくりだして,それを多くの人が共有しているのか.あるいは,このような場面をこっけいであると感じる性質が多くの人にあって,チャップリンはそれを刺激する映像をうまくつくっただけなのか.
 …どうも後者のような気がします.

言葉でないものが多くを語る

『独裁者』の最後のほう,床屋のチャーリーが独裁者のヒンケルになりすまして階段をのぼる場面で思いました.しかし考えてみれば,それ以外にも,チャップリンの映画では,いたるところで,言葉以外のものが多くを説明していますね.
 さて,ヒンケルに対して,チャーリーの階段ののぼり方はあまりにたどたどしかった.ヒンケルにもチャーリーにも,つくりこまれたキャラクターがあるわけですが,階段ののぼり方たったひとつで,それが判別できてしまう.のみならず,不安なチャーリーの心情まで透けて見えてしまう.つまり,人には,言葉に表されていない所作,着物,持ち物などから,語られる以上に多くのことを読み取ってしまう性質がある,ということにはっと気づいたのです.
これって考えてみると恐ろしいことです.ある人の存在を総合的に見て,人はその人に対して文脈や説明を当てはめているわけです.言葉や顔色を隠し通すのは無理ということにもなりますし,見た目からくる偏見に無意識のうちにとらわれているということにもなります.
気をつける,というと何か違う気がするのですが,人には (あるいは,少なくとも自分には),そのような性質があるということを心にとどめておこうと思いました.


 

※1 ただし,自己完結したパフォーマーの姿を見せるのが目的のときには,この限りでないけれど.

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