2012/06/10

訓練としての人生

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一方で自分という一貫性を守り,一方で自分にとって正しい方向に型を破っていけるように,人生の一瞬一瞬に責任をもちたいものです,という話.

左近司祥子さんの書かれた『本当に生きるための哲学』 (岩波書店, 2004年) を読んで,まとめというか,思っていたことというか,そんなことを書いてみる.

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一瞬の判断が,良くも悪くも人生を変えることがある.
しかし,人生とはそもそも一瞬の連なる連続体であり,どこかの一瞬を大事にしようとするなら,その他のいずれの一瞬をも大事にしなければならない.

変わるのは人生ほど大きいものではないかもしれないし,変わったことに気づかないかもしれないけれど,ある一瞬の判断は,それ以前の判断の集積から影響を受けていて,いま何かを変えて,またその後の判断に影響を与える.

だから,普段の日々の一瞬一瞬をそのように訓練しておかなければ,ある特定の一瞬に,自分にとって正しい判断をくだすことが難しくなる.その特定の一瞬を成功させるためには,普段から一貫して「自分である」ように準備と蓄積をつづけておかなければならない.

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しかし,人間にはそんなに単純でないところもあって,その特定の一瞬に,それまでの準備をすべて反故にするほど力強いひらめきが生じることがある.このひらめきによって,あるときには飛躍的に幸せに,あるときには飛躍的に不幸にもなる.

このひらめきは「自分ではないが自分である」もので,飛躍した先を自分にとって正しいものにしておくためには,やはり普段の一瞬の判断の連続体に厚みをもたせておくことが肝要である.

だから,自分の人生を自分として生き,それでも自分の枠を超えつづけるために,訓練としての人生を進めていきたいものです,ということ.

しかし,この一貫性を守っていくのはそう簡単ではなくて,それだから,人類はこれを守るためのありとあらゆる方法を,知恵をしぼって考えてきたのかもしれない.

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最後に本からの抜き書きを.
というのはこの瞬間の断というのも次の瞬間の断のための集積の一つになっていくということです.
そういう生き方を私たちはしているわけですし,するしかないのです.そうだとすれば,この瞬間の断のために,そして今後必要となる新しい断のためにも,正しい断をこの瞬間に下せるように訓練をしておく必要が出てくるのです.広い意味での訓練です.

連続する私に,突然割り込んできた飛躍した私,それぞれについての,いろいろな考察はあとのことです.あとでゆっくりすればいいのですし,するべきです.そして,実際私たちはそうしています.

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