2012/03/31

専門性の向かう先を少しずらす

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日本の食と酒 -中世末の発酵技術を中心に』 (吉田元. 1991. 人文書院) という本を読んで,あとがきが興味深かったので,一部を転載します.

緑美しい舞鶴湾に面した水産学科の学舎を巣立ってから,大学院,米国でのポスドク生活を含めた10余年間,食糧科学研究所,医学部生化学科,農学部農芸化学科と,仕事場所は次々にかわったが,著者はずっと各種微生物酵素の精製,応用研究を続けていた.
しかし赴任先の小さな文科系の大学 ※1 には実験室すらなく,ここで自然科学史を講義することになった.実験室なき実験屋としてはしばらくは茫然とし,以後の研究をどう進めるべきか大いに悩んだのであるが,科学技術史を選び,それまで学んだ応用微生物学と仏教寺院とをつなぐテーマがないかと探し続けた.
日本酒の火入れ殺菌が,世界に先駆けて16世紀に奈良興福寺の一塔頭で実施されていたことを知ったのは,その頃たまたま手にした坂口謹一郎先生の名著『日本の酒』によってである.日本における火入れ殺菌法の起源を求めた本書の第六章が著者の研究の再スタートとなったわけであるが,最初に出会った史料があらゆる研究の宝庫とも言うべき『多聞院日記』だったことは大変幸運なことだったと思っている.この日記は寺院の作業日誌的性格も有していて,中世から近世にかけての諸日記の中でこれだけ発酵食品の製造法を定量的に解析出来るものは他には見当たらない.本日記により酒だけでなく,現在の醤油の原型についてもかなりはっきりとした像が見えて来たように思う.
著者は吉田元先生.農学で博士をとられ,現在の専門は科学社会学・科学技術史および農芸化学とあります.

博士号修得後 (博士号に限りませんが),身につけた専門性をもとに,どういった道を切り拓いていくか,有用なヒントがあるように思いました.どの分野にせよ,新たなものを創りだす過程には苦労があり,努力も必要になるでしょうけれど,専門性の向かう先を少しずらすという選択肢を選びとることも,ときには良い結果につながるのかもしれません.

※1 種智院大学仏教学部

2012/03/17

旅と「非日常」

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旅先で「非日常」を過ごすことなどできない,という話.

旅先で過ごす「非日常」への期待

旅に出るとき,どれだけ「日常」を連れていくかには,その人の個性が表れる.大きなスーツケースに何種類もの服や生活用品を詰めこんで出かける人もいれば,バックパックひとつでふらりと出かける人もいる.

私は後者でありたいと思っていて,今回の3週間の旅でも,20Lのバックパックひとつにできるだけ少ない荷物を入れ,「日常」と接点を持つものはラップトップ ※1くらいにして日本を発った.

異国のまだ見ぬ空気への期待・不安と,置いてきた「日常」から逃れた開放感が,旅先での「非日常」を魅力的なものにして,何かそうした「非日常」の体験や思考が可能になるように思わせる.人が旅に出る大きな理由のひとつに,この「非日常」を過ごすことのできる期待があるんじゃないかと思う.

旅先で見たもの

今回のインドの旅では,いろいろな「非日常」の過ごし方を見た.
日本人の多いゲストハウスでは,群れてコミュニティをつくる旅行者を見た.
高級な店が立ち並び駐在員などが多く暮らす地域では,汚れひとつないヒールで高級紅茶店に出入りし,三等列車に乗ることや屋台の食べ物を食べることなど考えもしない人々を見た.
たまたま出会った同年代の男性は,日本に暮らす自分たちを相対的に捉えたい,価値観を確かめたい,という目的をもって世界を旅していた.
私は,文脈を避けて,ひとりのなかに埋没する時間が多かった.

これらから見えてきたのが,旅先で「非日常」を過ごすことなどできず,私たちはどこまでも「日常」を連れていくほかない,ということだった.

「日常」を離れることなどできない

おそらくたいていの場合,場所やすこしの時間が変わっても,私は私のままで変わらない.個人の行動をなんとなく方向づけるモノの見方は変わらなくて,人は,旅先でもその原理にしたがって動くことになる.そういう意味では,人は「日常」を離れることなどできない.私の周りにあるものは変わっても,それを見て選びとり行動する私は,これまでの積み重ねの延長に在りつづける.

さらに,人は見ようとするものしか見えないから,旅先で「非日常」を見ているつもりになっていても,「日常」の自分が見て感じているものは結局「日常」であったりする.つながりに飢えた毎日を送っていれば,旅先でも同年代の日本人が特に目につくだろうし,価値観を確かめたいと常々考えていれば,文化や環境の差異とその背景に敏感になるだろう.

「日常」のなかで「非日常」を見ることのできる稀有な人もいれば ※2,「非日常」のなかで「非日常」を見た気になっている人もいる.ただひとつ,旅先では「非日常」に気づく閾値が低くなるということは言えるかもしれない.

結論

あちこち旅をしてまわっても,自分自身から逃れられるものではない.
(ヘミングウェイ)

※1 行きの飛行機で隣に座った写真家の方と話をしたときのことが印象的だった.彼女は,一眼レフをあえて置いてきたと語った.持ってきたら「仕事」をしてしまいそうだったから,と.私もラップトップを持っていくか迷い,結局持っていった.
※2 思い浮かぶ知り合いの顔があるし,寺田寅彦なんかもそうだったんじゃないかと思う.

2012/03/11

1年前の地震とその前後のことについて

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あのときは会社に勤めていて,しばらく先までの人生をどう方向づけていくか,決心しきれていなかったときだった.そのちょっと前から,人から遠ざかってひとりのなかに埋没している時期がつづいていて,そんな状態で2011年の3月11日をむかえた.

当日

その時刻,会社のデスクに座っていて,ずいぶん大きく長く揺れるなと思った.立ちあがったら,同じように立ちあがって不安と好奇の目で周りを見渡している人が見えた.
避難指示が階ごとに放送されてきて,それを待っているあいだ,参考になるかもしれないと以下のエントリを読んでいた.

2001年9月11日、ワールドトレードセンタービルの102分間 (A Successful Failure)

防災係になっていて,非常階段へ人を誘導しているとき,何回か大きな余震があった.揺れが若干気持ち悪くて,廊下にしゃがみこんでいて,上記のエントリの内容を思い出したりして,けっこう真面目に死を意識した.こんなことも思った.

地震の最中、揺れるビルの廊下にしゃがみこんでいたときに思ったのが、「自分はいま死んでも後悔しない人生を送ってられてるのか?」ということだった。答えは、Yesのようなところももあり、しかしまだ圧倒的にNoだった。
2011年3月11日 - 18:38 (Twitter)

避難訓練でやったのと同じように,会社の外の公園に出た.その後は,電車が動いていないことを聞いたり,もう退勤になったことを知らされたり,混雑回避で浅野屋に向かい本を読んでいたりした.当時はドストエフスキーの『悪霊』を読んでいたようだ.Tokyu Precceの混雑整理の放送が聞こえてきて,浅野屋で大量のパンを買っていく人がいたりして,食料や日用品の買いだめが起こっているんだなと,のんきに考えていた.

結局,帰れそうもなかったので,20時過ぎに会社に戻った.Tokyu Precceはほとんど食べ物が残っておらず,セブンイレブンも同様だった.エレベーターは止まっていて,たまたま出会った同期と階段で上にのぼった.

夜中の会社内,同僚と見たTVでは,巨大な水のかたまりが火や建物を押し流していた.しばらく言葉を失った.

朝型の私に夜はつらいので,人の少ない共通休憩スペースのソファーに寝転がった.余震でブラインドが揺れて窓枠にあたる周期の長い音が,不気味だった.この音を聞くと,今でもこのときのことを思い出す.別な人がすこし離れたソファーに横になったり,また起きて離れて行ったりしていた.

次の朝は相変わらず晴れていて,寝不足が気だるかった.


翌日以降

周りが非日常の空気をまとったのを覚めた目で見ている自分がいた (あるいは,そうだったように思っていた).

ただ,Twitterに流れてくる,どんな視点からでもどんな風にでも解釈ができてしまうような,そんな文字たちを見るのが苦しくて,それでもiPhoneを取り出して見るのをやめることが難しかった.幸いにそれをしつづけられる結果に分かれた人たちは,インターネットの向う側で,みんなそれぞれなにかを思い,なにかをしていた.


その前後

当時,自分が「生きる」ために精一杯で,地震の前から,外界と自分との距離が遠かった.外界に対して働きかけるチャネルはできる限り絞り,外界から入ってきたものに心や行動パターンを乱されたくないと願っていた.

そのせいか,地震後の「非日常」を,日常のように過ごしていたように思う.ちょっと変わった生活に,好奇とすこしの不安で色がついたような.常磐線が松戸までしか届かなかったことと,スーパーが閉まるのが早くなったことくらいしか記憶に残っていない.仕事はほとんどストップしたけれど,人のすくない会社で,かわりに勉強をつづけていた.

私にとっては,そうだった.人や災害との相対的な関係が変われば,思いもきっと変わってくるのだと思うけれど.

これまで意識しなかったけれど,地震によって,外界との接続の弱さがさらに促進されたように思う.その夏に会社を辞めたのは,地震そのものよりは,そのあとに仕事がストップした状態がつづいて,そこでもやもや考えていたところも大きく関係しているような気がする.上澄みはまとめることができたけれど,もやもやの部分はうまく言語化できていないし,自分の感情の再帰的な力からも自分を守ろうとしたために,あまり覚えていない.

外界との接続が弱い状態は,つい最近までつづいた.そして,インドから帰ってきたあと,それを終わらせる気になった.インドが契機になったのではなくて,降り積もってきたものが閾値を超えたのが,ちょうどその時期にあたっていたのだと思う.


いま

そんなわけで私にとって,地震は,文脈のひとつだった.

外界との接続を弱め,弱まっていったときに地震がおこり,弱まりは加速された.接続が適当に弱まった状況のなかで「知りたい」という感情を発見して,4月の終わりに,会社の上司に退職の意志を告げた.接続の弱さはつづいて,そのなかから「怒らない」というシンプルな結晶が現れた.

そんなわけで,いまに至る.
ここにきて,やっと息ができたような気もするし,そうでないような気もする.
これから,ということで問題はないと思う.